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この物語の幕を閉じる、最も悲劇的で、けれど彼にとっては救いとなる最期の情景ですね。
蓮様が、完璧な当主としての義務をすべて果たし終えた後、ひなちゃんの後を追う決断をする物語を描きます。
ひなが逝ってから、ちょうど十年。 月ヶ瀬家をかつてない繁栄へと導いた月ヶ瀬 蓮は、その日、すべての執務を完璧に終わらせた。
次代への継承準備、邸宅の管理、そして忠実な部下たちへの遺言に近い手配。すべてが整ったことを確認し、彼は執務室のデスクに一通の封書を置いた。
表書きには、ただ一言。『椿へ』
蓮は、十年ぶりにコートを羽織り、雪の降る庭へと出た。 かつて幼いひなが転び、葵が忘れな草を植え、そして自分が彼女への愛を確信したあの庭だ。
庭師の葵は、主人の異変に気づいていた。蓮の歩き方は、どこか軽やかで、憑き物が落ちたような清々しさがあったからだ。
「蓮様、こんな雪の日にどちらへ……」
「葵。……長い間、この庭を、彼女の記憶を、守り続けてくれて感謝している。あとは、君の好きなように花を植えるといい」
蓮はそれだけ言うと、葵の返事を聞かずに、邸宅の奥にある「開かずの間」へと向かった。そこは、かつてひなが息を引き取った、メイド寮のあの部屋だった。
部屋は、あの日から一分たりとも時間が進んでいないかのように、椿の手によって完璧に清められていた。
蓮は、自分が持ってきた古い魔法瓶から、温かい紅茶をカップに注いだ。そして、もう一つの空のカップにも。
「待たせたな、ひな。……ようやく、君のところへ行ける」
蓮は、引き出しから一通の手紙と、古い薬瓶を取り出した。それは、彼が十年の歳月をかけて、密かに用意していたものだった。
彼にとって、ひなのいない十年間は、ただの「余白」に過ぎなかった。当主としての責務という重い枷を外せる日を、彼は一秒たりとも忘れずに待ち続けていたのだ。
執務室で遺書を見つけた椿が、息を切らしてその部屋の扉を開けたとき、すべては終わっていた。
部屋の中には、安らかな顔で椅子に深く腰掛けた蓮の姿があった。 その手は、十年前には決して届かなかった、ひなの遺影の隣に置かれた**「あの日のハンカチ」**を強く握りしめていた。
テーブルの上の紅茶は、まだわずかに湯気を立てている。 蓮の表情は、この十年間で一度も見せたことのないほど、穏やかで、幸福に満ちたものだった。
椿はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。 彼女は知っていた。主人がこの日を目指して、どれほど完璧に「死の準備」を進めてきたかを。主人の本当の心は、十年前のあの日、すでにひなと共に死んでいたのだということを。
蓮の意識が深い雪の中に沈んでいくとき。 冷たい闇の向こうから、聞き慣れた、けれど懐かしい声が聞こえた。
「――蓮様。お迎えに、来ました」
顔を上げると、そこには十八歳のままのひなが立っていた。 少し大きすぎるメイド服の裾を揺らし、ドジをして困ったような、けれど太陽のような笑顔で。
「……遅かったじゃないか、ひな。お茶が、冷めてしまったぞ」
「ふふ、申し訳ございません。でも、これからは時間はたっぷりありますから」
ひなは、蓮の差し出した手を取った。 今度は、彼女の手は驚くほど温かかった。
外では、降り積もる雪がすべてを白く塗りつぶしていく。 月ヶ瀬邸の二人の物語は、冷たい現実の世界から消え去り、誰も邪魔することのできない、永遠の庭園へと移ろっていった。
「最高のメイド」と「最高のご主人様」。 二人のワルツは、ようやく、本当の始まりを迎えたのだった。