テラーノベル
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本国から遠く離れたイージプの地で――。
アグリは各地の反乱を一つひとつ鎮圧しながら、着実に統治を進めていた。
「ライナー王、大丈夫ですかねえ。」
副官が心配そうに尋ねる。
「マエクスもいるしなあ。」
アグリは書類へ目を落としたまま答えた。
「またバルカに敗れたそうですよ。」
「そうだねえ。」
「心配じゃないんですか。」
「大丈夫だよ。」
「どうしてです?」
アグリは地図へ視線を向けた。
「バルカの目的は、戦術的勝利を積み重ねることだ。」
「同盟諸都市を動揺させ、離反を誘い、グラン王国のネットワークを崩壊させる。」
「でも、こうも負け続けると……。」
「見方を変えれば、まだそこまでは至っていない。」
アグリは静かに続ける。
「バルカ本国スパルーニャの北では同盟都市のマッシマが、南ではシラクスが、
なおグランを支持している。」
「両都市はバルカ陣営の艦隊まで沈めている。」
「現時点で、バルカ側へ寝返った同盟都市は一つもない。」
副官は目を丸くした。
「つまり……。」
「大きな局面で見れば、バルカはただ局地戦で勝っただけにすぎない。」
「もちろん放っておける相手じゃない。」
「だけど、我がグランの人材は厚い。」
アグリは穏やかに笑った。
「我々がこのイージプを押さえ続けていることも、
王国全体の勝利には欠かせないんだ。」
副官は苦笑する。
「そんなもんですかねえ。」
「そんなもんだ。」
バルカは王都を目指さなかった。
アグニー山脈沿いを東へ進軍する。
疲弊した兵を休ませ、食料を確保するためである。
数日後――。
バルカは違和感を覚えた。
(……つけられている。)
周囲に敵軍の姿はない。
それでも、どこか視線を感じる。
(いや……。)
(囲まれているのか。)
すぐさま斥候を四方へ放った。
やがて戻った騎兵が地図を広げる。
「総司令。」
「我らを取り囲むように、小規模な砦が次々と築かれております。」
「兵数は多くありません。」
「ですが、街道という街道を監視しています。」
バルカは地図を見つめ、静かに口元を緩めた。
「……なるほど。」
敵は戦わない。
だが、自由にもさせない。
補給路を監視し、進路を制限し、わずかな動きさえ見逃さない。
バルカはようやく敵将の狙いを悟った。
「戦わないか。」
そして静かに笑う。
「厄介な相手だ。」
こうして――
バルカとファービー。
互いに剣を交えることなく、知略と忍耐を競う心理戦が幕を開けた。
「場所を移動する。」
バルカは軍を率い、西へ進路を変えた。
追尾するグラン軍と一定の距離を保ちながら、目指すはカンパルニア平原――大都市カンパ。
豊かな穀倉地帯であり、兵を休ませるには絶好の土地だった。
「カンパだと?」
報告を受けたファービーは地図を見つめる。
(……補給か。)
(それとも誘いか。)
しばらく沈黙した後、静かに立ち上がった。
「出陣する。」
街道という街道へ兵を送り、小規模な砦を次々と築かせる。
山々に囲まれたカンパルニア平原。
そのわずかな出入口を塞げば――。
ファービーは地図の上へ指を置いた。
「ここを巨大な檻にする。」
グラン軍を嘲笑うかのように――。
バルカ軍はカンパルニア平原の各地で略奪を繰り返した。
村は焼かれ、収穫を目前にした麦畑は踏み荒らされる。
その報せが届くたび、将官たちの怒りは募っていった。
「もう我慢できぬ!」
真っ先に立ち上がったのはミルキウスだった。
「敵は平原にいる!」
「今こそ決戦を挑むべきです!」
賛同の声は次々と上がる。
「このまま見過ごせば、民は我らを見限ります!」
「いつまで逃げ回る敵を眺めているおつもりか!」
だが、ファービーは首を横に振った。
「ならぬ。」
その一言だけだった。
翌日も。
その翌日も。
将官たちは宿営を訪れ、決戦を迫った。
拒まれるたびに怒声が飛ぶ。
「このうすのろ野郎!」
「臆病者!」
「それでもグランの男か!」
罵声は日に日に激しさを増していく。
ファービーは何も言い返さなかった。
ただ黙って地図を見つめ続ける。
敵と戦う前に――
味方と戦わねばならなかった。
背後で糸を引く者がいる。
ファービーは、その中心にミルキウスがいることを薄々察していた。
だが処罰はしない。
今ここで軍を二つに割ることは、
バルカへ勝利を与えることに等しいからだ。
その沈黙は寛容ではなく、苦渋の選択だった。
しかし――。
将官たちはそれを弱さと受け取った。
宿営では命令を軽んじる空気が広がり、
指揮系統は少しずつ緩み始める。
「……頃合いかな。」
その報告を受けたバルカは、小さく呟いた。
獲物の綻びを見つけた狼のように、
静かに立ち上がる。
「出るぞ。」
ついに奇襲が始まった。
「牛だ!」
「ミノタウロスだ!」
「化け物が襲ってきたぞ!」
深夜――。
頭に松明を結び付けられた二千頭の牛が、街道の砦へ一斉に突進した。
炎は闇の中で無数の怪物のように揺れ動き、
緩み始めていたグラン軍は大混乱へ陥る。
その混乱へ乗じ、
マハル率いる精鋭が砦を急襲した。
「待て!」
「慌てるな!」
急報を受けたファービーは立ち上がる。
「これはバルカの罠だ。」
「夜陰に乗じ、本隊を誘い出すつもりだ。」
「全軍、その場を動くな。」
誰一人、追撃を許さなかった。
夜が明けた時――。
バルカ軍の姿は、すでになかった。
包囲網は突破されていた。
夜明けとともに各砦から伝令が駆け込んだ。
「敵影なし!」
「包囲線を突破されました!」
「また何もしなかった。」
その噂は、瞬く間に王都中へ広がる。
慎重は臆病と呼ばれ、
忍耐は無能と罵られた。
ファービーは政治的窮地へ追い込まれていく。
一方――。
自由を取り戻したバルカは、
再びグラン王国の同盟網へ揺さぶりをかけ始める。
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コメント
1件
第55話、読み終えました。今回も戦略の駆け引きが本当に面白かったです。ファービーの「ここを巨大な檻にする」という発想にまずぐっときました。戦わずして封じるっていうのは、発想の勝利ですよね。でも、バルカもただ者じゃない…牛二千頭を使っての奇襲は完全に意表を突かれました。あの「緩み始めていた指揮系統」を見抜く嗅覚が怖い。そして何より、ファービーが味方からの罵声に耐えながら地図を見つめ続ける姿が痛々しくて、応援したくなりました。政治的な窮地に追い込まれていく展開、次が気になります。