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教室の空気は、何も変わっていないはずだった。
机の配置。
朝のざわつき。
笑い声、咳払い、ペンの音。
──なのに。
遥の耳に届くそれらの音は、すべて遠く、くぐもっていた。
自分だけが違う時間軸に落ちているような、そんな感覚。
扉が開く気配。
その一瞬で、心臓が跳ねた。
見なくてもわかる。
あいつが来た。
視界の端に、いつものように鞄を置き、
椅子を引いて座る仕草が映る。
ほんのそれだけの動作なのに、
なぜか、心が締めつけられるように苦しかった。
(見んな。こっち見るな)
心の中で祈るように呟きながら、遥はひたすらノートの端を見つめた。
何も書かれていない白い余白。
そこに黒いインクで「ばれる」とか「汚れた」とか、そんな言葉をなぞってしまいそうで、ペンを握ることさえできなかった。
──夢のことが、まだ身体に残っている。
触れられていないはずの皮膚が、まだ熱い。
擦られたわけでもないのに、指の感触が消えない。
吐息。
声。
背中の震え。
──全部、あいつのものだった。
(オレのせいで)
唇を噛んだ。
まぶたの裏に浮かんだ映像を消そうとしても、うまくいかない。
何度も、夜中に夢の続きを見た。
起きてからも何度も思い出しては、気持ち悪くなった。
でもそれ以上に、
「あいつを自分の欲で引きずり込んだ」という事実が、遥の心を苛んでいた。
あいつが悪いんじゃない。
優しいから。
ちゃんとしようとするから。
近づいてこようとしたから。
悪いのは全部、オレ。
オレが、望んだ。
オレのなかで、勝手に汚した。
(もう、顔なんか見れねぇ……)
何かの気配を感じて、遥はついに視線を持ち上げた。
──目が合った。
数秒、互いに瞬きすらできなかった。
日下部の瞳は、何かを探るように静かで。
だけど、怒っているわけでも、責めているわけでもなかった。
それが、いちばん苦しかった。
(なんで、そんな顔すんだよ)
もっと軽蔑してくれればいい。
拒絶してくれたら、逃げやすいのに。
遥は、さっと目を逸らした。
ペンを握る手に力が入りすぎて、爪が折れそうだった。
そのとき──
「……朝から、すげぇ空気」
後ろから、蓮司の声が落ちてきた。
「ケンカでもした? それとも、昨夜の続き?」
何も知らないはずなのに、
いや、何もかも知ってるふうに。
声が軽い。笑っているようで、
だけど、そこにあるのは確信犯の残酷さだった。
遥の肩がびくりと揺れる。
それを見逃さず、蓮司はさらに声を近づけた。
「夢の中でも泣いてた? ──あいつのこと、思い出しながら」
遥は、何も言えなかった。
言葉を探す脳が、機能していなかった。
ただ、自分の鼓動だけが、異様にうるさく響いていた。
──このままじゃ、壊れる。
そう思った。
逃げなきゃ。
今すぐ、この空気から、自分自身から。
遥は、椅子を鳴らして立ち上がった。
教科書も何も持たず、そのまま教室を出ていく。
誰かが名前を呼んだ気がした。
でも、それすらも幻聴のようにしか聞こえなかった。