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「……えっ!? ちょっとお母さん!」
なに勝手に気を回してるの!
困るよ、と思いながら慌てて声をかけるものの、お母さんは笑いながらカバンを掴んで席を立つ。
「あっ、俺、そういうつもりじゃ」
原田くんも慌てて言うけど、お母さんは原田くんが恥ずかしがっているとでも思っているような感じだ。
「いいのよー、渉くん。若菜は今彼氏いないみたいだし誘ってやって。お父さんのことで家の中が暗くなってたけど、明るい話が聞けてよかったわ。ありがとうね」
そんなことを言われたら―――このことでお母さんの気持ちが明るくなったと言われたら、私もそれ以上なにも言えない。
座敷を去るお母さんの背中を見ながら、強い焦りが突き上がってくる。
待ってよ、私は湊に会いたいのに。
(私―――)
「多田さん」
意識が湊に集まっていたから、原田くんの呼びかけにはっとした。
「えっ?」
「ごめん、なんか俺、また早とちりして……」
「あっ、ううん。お母さんも変に気を回して、ごめんね」
原田くんは単に勘違いしただけ、というか、悪いわけじゃない。
「ごめん。俺多田さんのこと好きだけど、多田さんのご両親にお膳立てしてもらうのは違うかなって思ってて……」
弱った顔で言う原田くんを見て、内心ほっとした。
原田くんがどういうふうに受け取ったのかわからなかったし、便乗して本当に飲みに行くと言われたら困ってしまうところだった。
「多田さん、とりあえず……俺たちも出ようか」
「あっ、うん」
よかった、帰れると思うと気持ちは幾分か楽になる。
原田くんには感謝しているし、彼の好意は私もきちんと考えないといけないけど……でも。
今は原田くんのことより、私の頭の中は、湊のことでいっぱいだった。
カバンを手に取り、原田くんに続いて座敷を出ようと靴を履く。
そっとスマホを確認するも、まだ湊から連絡はない。
(まだ湊、仕事中なのかな)
今日が今の勤務先での仕事納めになるはずだから、普段より帰りが遅くなっているのかもしれない。
私にとってそれが都合よかったけど、早く原田くんと別れて湊に連絡を入れたくて、気持ちは逸る一方だ。
レジで店員さんに声をかけると、お母さんがすでに会計を済ませていると教えてくれた。
「ごちそうさまです」と言って店を出ようとした時、「あっ」と思い出したように声をあげた店員さんが、なにかを私たちに差し出した。
「これ、ビールの試飲缶なんです。よければどうぞ」
小さな袋の中を見れば、新商品のビールが入っていた。
このお店で出していたビールと同じ会社のものだし、どうやらお客さんにこれを配っているらしい。
「これ飲んでみたかったんです、ありがとうございます!」
原田くんはぱっと顔を輝かせてそれを受け取り、私も続いてお礼を言って店を出た。
駅はすぐそこで、原田くんは歩きながら袋からビール缶を取り出す。
「いやー、ラッキーだったね。これCMでやってるやつじゃん」
「そうだね。最近私もテレビで見たことがあるよ」
「あっ、そうだ、多田さん!」
「ん?」
「これから飲みに行くのはあれだけど、せっかくこの缶もらったし、これ一本飲む間だけ、俺に付き合ってくれない?」
「……えっ」
数秒ほどして、私は勢いよく原田くんを見た。
「そのビール、冷えてないよね?」
もらった試飲缶は冷蔵庫に入っていたわけじゃなかったし、常温だ。
飲む間付き合ってと引き留められたことになにか言うよりも、本能が断る文句を作りだしたらしく、咄嗟にその言葉が出た。
「あっ、ほんとだ!」
原田くんははっとした顔で、試飲缶を見る。
その顔はみるみるうちに赤くなり、原田くんは眉を下げて「あぁー」と笑った。
「気づかなかった。飲みに行くのはあれでも、多田さんとちょっとでも長くいたかったから。ちょうどいいものもらったというか、いい案が思いついたなって思って」
邪気のない弱ったような目で、原田くんは笑っている。
でも私は原田くんの気持ちを知っているから、笑えず、すこしだけ眉が下がった。
「ちょっとだけ。……あとちょっとだけ、多田さんといたくて」
原田くんは寂しそうに笑いながら私を見ている。
原田くんと目を合わせたけど、なんとも言えない気持ちのまま、私はどう答えていいかわからなかった。
「……ごめん。私これから用事があって」
「え?こんな時間から?」
私の返事は意外だったらしく、原田くんは目を瞬かせた。
「うん、ちょっとね」
「そっか、じゃあもう行かなきゃじゃん。行こうか」
「うん」
原田くんは苦笑いで缶をしまい、駅へ歩き始めた。
彼が残念に思っているのは感じるけど、でも仕方がない。
今日私の大事な用事は、この後のことだから。
原田くん続いて駅へ歩きながら、カバンからスマホを取り出し、手に握る。
(湊)
湊、仕事終わったかな。
私の家は駅の東口側にあり、原田くんの家は西口側にある。
つまり駅を挟んで反対側で、私たちは自然と駅で別れることになる。
原田くんと別れたら……すぐ湊に連絡しよう。
和食料理屋さんから5分ほど歩き、東口が見えてきた。
さっき電車が到着したばかりのようで、ホームを去っていくのがすこし離れた場所からでもよく見える。
東口の横にある通路を通って西口へ行けるようになっていて、原田くんは東口の改札の前で立ち止まった。
「じゃあ、今日はありがとう。ごちそうさまでした」
「こちらこそ、手伝ってくれてありがとう。原田くんのこと、お母さんもお父さんも感謝してるし、本当に助かっています」
お父さんとお母さんの安心しているところや、嬉しそうな様子を知っているだけに、娘としてもきちんとお礼を言いたくて、背を正して頭を下げた。
「えっ、そんな、改まってやめてよ。俺多田さんの力になりたいし、おじさんたちの役にも立ちたいから」
深々と頭を下げた私を、原田くんが慌てた様子で一歩近づく。
姿勢を元に戻してほしいと思ったのか、原田くんは軽く私の背中に手を添えた。
それから数秒して、「あっ」と、すぐそばで原田くんの小さな声が聞こえる。
なにか見つけた時のような声に思え、なんだろうと無意識に目線をあげた。
原田くんが見ているほうに目を向けた瞬間、息が止まる。
改札から出てくる人波の中で、立ち止まってこちらを見ている人がいた。
驚きで息を止めているからか、私が見つめる相手が立ち止まっているからか、時間が止まってしまったような錯覚を覚え、音すら聞こえない。
シンプルな黒のTシャツにジーンズ姿の人は、静止してこちらを見ていた。
その人は子どもの時から家族のように育ってきた、よく知る相手で―――。
「……湊……」
無意識に声が滑り落ち、それを合図に鼓動が一層大きくなる。
背中にあった原田くんの手が、ゆっくり私から離れた。
止まっていたような時間がその拍子に動き出し、息苦しさも、胸の苦しさも、一気に襲ってきた。
わけのわからない焦りに包まれる中、すぐ横で原田くんの明るい声がする。
「清水、今帰り?」
その言葉に湊は意識を引き戻されたのか、一拍遅れて「あぁ」と反応した。
「そっちは?」
「あ、さっき和食屋さんでごはん食べてたんだ。多田さんのお母さんも一緒で」
原田くんは今日あったことを簡潔に湊に話し始め、湊はそれを聞いて「そうだったんだ」と軽く相槌を打つ。
でも湊はどこか上の空で、さっき私たちのほうを見ていた時の、呆然とした雰囲気は抜けていない。
(湊、さっきのどう思ったんだろう)
私たちを見つけた時の表情が、頭から離れない。
原田くんが私の背中に触れているのを見たとは思うけど……。
それを何とも思われていないのなら、それはそれで恋愛対象外だと突きつけられているようで悲しい。
でも、かといってもし湊の中で引っかかるものがあるのなら、期待が膨らんでしまって、それはそれで苦しいのだけど。
原田くんがひととおり話し終えると、湊は私に目を移した。
その目が思いの外に力がなくて、説明のつかない嫌な予感が加速する。
「あぁ、清水。そういえば明日から異動?」
「え? あぁ、そう」
「そっか……。頑張れよ。清水の店に行けなくなるの、寂しくなるな」
湊は原田くんに異動になること伝えていたようで、原田くんの口ぶりから、本心で寂しいと思っているのが伝わってくる。
「原田くん、湊から異動のこと聞いてたんだね」
ぽつりと独り言のように言うと、原田くんは「うん」とこちらを見た。
「そうなんだ。前教えてくれて」
原田くんは、もう一度湊に目を戻す。
「俺さ……。前に清水と話したこと、ちゃんと守るな」
「え?」
それはなんだろうという顔をした湊に、原田くんはその時のことを思い出すように、目を細めて続けた。
「前に清水が言ってくれただろ。異動になったら、お前が多田さん支えてくれるんだよな? って」
柔らかい原田くんの声。
それなのに、その言葉で私と湊の空気が一気に強張ったのがわかった。
「多田さんと、多田さんの家を俺が支えるように念押ししてくれただろ。俺……絶対そうする。もう多田さんも俺の気持ちわかってくれてるし、今ふたりに伝えておきたくて」
そう言って照れたように笑う原田くんを、私はほとんど呆然としながら見ていた。
湊もどんな目で見ているだろう。
少なくとも原田くんみたいに、柔らかい雰囲気では笑っていないのはわかるけど、私にとっては、その話は期待を打ち砕くには充分だった。