コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
“前に清水が言ってくれただろ。異動になったら、お前が多田さん支えてくれるんだよな?って”
“多田さんと、多田さんの家を俺が支えるように、念押ししてくれただろ”
原田が俺を見て、わずかな微笑みを見せてそう口にした時、何かが体の中でさあっと冷えていく感覚を味わった。
咄嗟に若菜がどう思ったのか気になるが、若菜は原田のほうを見つめたまま呆然としている。
若菜に以前、俺より原田のほうが、若菜や若菜のおじさんの力になれると思っていることや、原田にはその意思もあって、それだけの力があることも伝えたことを思い出す。
(あぁ……)
たぶん若菜は、以前そう俺が話したことと、今の原田が言ったことで、俺が原田に若菜を任せようとしていると、はっきり思っただろう。
呆然とした表情のまま、若菜はゆっくりこちらを見た。
“私のこと、原田くんに託したんだ”
“私のすぐ傍から、湊が離れるんだ”
そう思っているのが伝わってきて、途方に暮れた気持ちになる。
心の端で、「終わった」と声がした。
「しばらく清水と会わないかもしれないし、伝えときたくて」
笑顔を見せる原田の言葉に反応する気力もなく、俺はただ原田を眺めるしかなかった。
その時、どこかで着信を知らせる音がする。
反応したのは原田で、ポケットからスマホを取り出し、「母さんだ」と驚いたように呟いた。
「ごめん、出てもいい?」
断りを入れてスマホを耳に当て、原田はしばらく黙って話を聞いていたが、やがて「えっ」と驚いた声をあげ、続いて「わかったよ」としぶしぶといった調子で言った。
通話を終え、俺たちを見た原田は、苦笑いでスマホをしまった。
「母さん出かけてたみたいなんだけど、家に鍵を忘れて出たらしくて、すぐ帰ってきてって」
俺は答えず、若菜は「そうなんだ」と、まだ呆然とした様子で相づちを打つ。
若菜に「ごめん」と笑い返した原田は、今度は俺と目を合わせた。
「多田さん送って帰るつもりだったけど、清水、任せていいか?」
邪気のない目で笑う原田に答えられずにいると、原田が続ける。
「清水は多田さんと家が隣なんだよな?それなら帰りは一緒だろうし、頼む。じゃあ、異動先でも頑張れよ」
「またな」と笑って俺の肩を軽く叩き、原田は西口のほうへ向かっていった。
少し先で振り返った原田は、俺たちに手を振った後、駆け足で去っていく。
あたりは急にしんとして、斜め向かいにいる若菜に意識が集まる。
(若菜)
そちらを見たいのに、見たくないのは怖いからだ。
それでも若菜のほうを見れば―――若菜が力ない目で俺に目を移し、それからほんのかすかに笑った。
若菜が今何を考えているのか、わかりそうでわからない。
ただ、力の抜けた表情とかすかな笑みを見て、焦燥感で胸を締め付けられる思いがした。
「……湊、仕事終わってたんだ。まだなのかと思ってた」
かすかな笑みを浮かべたまま若菜が言い、俺ははっとして反応する。
「あ……。いや、さっきまで店長と一緒で、連絡しそびれてた。電車降りて連絡しようと思ったら、若菜と原田がいて……」
「あぁ、そうだったんだ」
若菜は話しながらずっと弱い笑みを浮かべている。
笑顔は笑顔なのに、その表情が儚げで、それでいて俺と目を合わせないから、不安がどんどん募っていく。
明日から俺は○○県だから、行く前に若菜と話をしようと思っていた。
若菜と離れる前に、思いを伝えられればと思っていた。
でもさっきの話で、若菜は俺が原田に、若菜たちのことを頼むと伝えたと思ったはずだ。
(若菜がそう思っているところに、俺が何を言えばいいんだ?)
俺が明日いなくなるのは確定で。
若菜や若菜の家のためになる原田に、任せるしかないと思っているのも事実なのに―――。
「……明日、湊は何時に出発するの?出発って言い方が合ってるのかわからないけど」
俺がなにも言えずにいると、若菜が小さく笑ったまま尋ねる。
「え? あぁ、明日は朝8時ごろかな。荷物は少ないから、引っ越しは大したことないんだけど」
「そうなんだ。じゃあ、もう遅いし……帰る? 湊も朝早いしね」
言って若菜はバス停のほうへ歩いて、時刻を確かめようとする。
その背中を見ながら、若菜はもう俺と話すことはないんだ、と打ちのめされた。
確かに、この時間からどこか店に入って話すとなると、若菜だって明日仕事だろうし、支障が出るだろう。
でも……やりきれない。
このまま終わりたくないから、若菜に会いたいと言ったんだ。
「あ、バス30分後だよ。どうしようか」
こちらを振り返った若菜は、笑っているのに、やっぱり笑っているように見えない。
その上俺の目は見ず、焦りや不安が混ざった強い思いが湧き上がる。
それなのにうまく言葉が出てこないし、なんて声をかければいいかわからない。でも―――。
「……歩こうか。俺、明日からいなくなるし、若菜と話しながら帰りたい」
ここから俺たちの家まで歩いて20分ほどだ。
その間は俺と若菜は二人きりになる。
もう手がないかもしれないし、打ちのめされて頭の中は回っていない。
でも……今強く思っているのは、若菜と二人になることだった。
若菜はほんの少し驚いた顔をした後、「そうしようか」と言って歩き出した。
歩き慣れた駅から家までの道は、街の明かりが少しずつ遠ざかって、人気がなくなっていく。
「湊は仕事納め……というのかな。どうだった?」
一歩先を歩く若菜が尋ね、俺は斜め後ろから若菜の横顔を見た。
「今日はいつも通り終わったんだけど、バイトたちが残ってくれて、お別れ会みたいなのをしてくれたよ」
「そうだったんだ。よかったね。湊はあのお店長いから、みんな寂しがってたんじゃない?」
「そうでもないけどな」
若菜が笑うから俺も小さく笑ったけど、焦りで心は不安定だ。
さっき駅で原田と若菜がふたりでいた姿が―――若菜の背中に原田が触れ、顔を覗き込むように見ていたところが頭から離れない。
「若菜は?さっき原田となんの話してたの?」
若菜は目を見開き、一瞬固まった。
すぐ目元をゆるめて笑ったけど、俺はその一瞬を見逃さない。
「あぁ、さっきは原田くんにお礼を言ってたの。今日手伝ってもらったし、原田くんにはお父さんとお母さんも感謝してるからね。私が頭を下げたら、「そんなのいいよ!」みたいな感じで、原田くんが言ってくれて」
言われて状況をなんとなく理解する。
あの時若菜に触れていたのは、そういうことだったんだ。
そう思うが気持ちは楽にはならず、複雑になる。
それは原田が若菜や若菜の家にとってありがたい存在だと、改めて知らされたからだ。
わかっている。
でも、わかっていても、それが嫌だと思っている自分はすこしも消えてなくならない。
いつの間にかうつむいていたらしく、もう一度顔を上げて若菜を見れば、さっきよりぎこちない笑みを浮かべていた。
「そうだったんだ。あいつといるのが気になったから」
「そりゃびっくりするよね。お母さんもいるって言ってたのに、いないし」
笑う若菜に俺は真顔で呟く。
「それもあるけど。原田が若菜に親し気だったから、気になったんだ」