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#溺愛
桜咲かな
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#溺愛
桜咲かな
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第255話 湾岸旧研究施設
【現実世界・湾岸区域/午後】
警察車両の列が、海沿いの古い工業地帯へ入っていった。
周囲には使われなくなった倉庫や工場が並び、
錆びたフェンスの向こうでは、止まったままのクレーンが海風を受けている。
人の姿はほとんどない。
道路にも新しいタイヤ痕はなく、長い間放置された区域であることが分かった。
先頭車両の助手席で、城ヶ峰は匠が残した地図を見ていた。
赤い丸。
『身体側固定点』
それ以外の説明はない。
木崎は窓の外を確認しながら言った。
「この先だ」
「根拠は」
「昔、この辺りに小さな研究会社があった」
「クロスゲート社か」
「いや。もっと前だ」
木崎は視線を前へ向けたまま答える。
「白峰が研究所に入った頃、匠も何度かここへ来ていた」
城ヶ峰が顔を向ける。
「知っていたのか」
「取材先だと聞いていた」
木崎の声には苛立ちが混じっていた。
「まさか、自分たちの研究設備を隠してる場所だとは思わなかったがな」
地図上の地点には、現在使われている施設の登録がなかった。
土地の所有者は何度も変わり、
最後に登記された会社も十年以上前に解散している。
建物は解体されたことになっているが、航空写真には倉庫らしき影が残っていた。
警察車両が停止する。
目の前には、低いコンクリート造りの建物があった。
窓は板で塞がれ、正面のシャッターには赤錆が広がっている。看板も社名もない。
「ここです」
後方車両から降りた日下部が、隔離端末を確認する。
本来、日下部は仮設指揮室から遠隔支援を行う予定だった。
だが匠の補助層と直接関わる装置がある可能性が高く、
現地で反応を確認する必要があると判断された。
城ヶ峰が特殊部隊へ指示する。
「周辺を封鎖」
「建物にはまだ入るな」
「通信は隔離回線だけを使え」
隊員たちが散っていく。
木崎は建物を見上げた。
「何もない倉庫に見えるな」
日下部が端末をかざす。
「通常の電力反応はありません」
「生命反応も?」
「ありません」
城ヶ峰が言う。
「なら、匠の身体はここにはないのか」
「まだ分かりません」
日下部は、匠の事務所で見つかった局所接続装置を取り出した。
『LOCAL AUXILIARY NODE』
金属箱の側面には、学生時代の匠と白峰が使っていた記号が刻まれている。
「この装置は、通常の空間を探すためのものではありません」
日下部は建物へ近づく。
「現実のすぐ外側にある補助層や、そこへ続く接続点を見つけるためのものです」
木崎が尋ねる。
「電源もないのに動くのか」
「この装置は、電気で動いているとは限りません」
日下部は金属箱を地面へ置いた。
白い点滅が始まる。
一度。
二度。
三度。
建物の奥から、同じ間隔で弱い光が返ってきた。
城ヶ峰の表情が変わる。
「反応したな」
「はい」
日下部は端末を見る。
「この建物の中に、同じ形式の接続装置があります」
「位置は」
「正面ではありません」
白い点滅は、倉庫の右側へ回り込むように動いていた。
一行は建物の外壁に沿って進む。
側面には、崩れかけた排水管とコンクリートの壁しかない。扉も窓も見当たらなかった。
だが、局所接続装置を近づけると、壁の一部へ細い白線が浮かんだ。
長方形。
人が通れるほどの大きさ。
木崎が手を伸ばそうとする。
「触るな」
城ヶ峰が止めた。
日下部は白線を観察する。
「扉ではありません」
「では何だ」
「ここに入口があった、という記録です」
木崎が眉を寄せる。
「記録だけ?」
「現在の壁には入口がない」
日下部は端末を操作した。
「でも、この場所は自分が入口だったことを覚えている」
匠が残した安全な門の条件。
偽の入口を拒否する。
場所が以前入口だったという記憶を保つ。
その考え方と同じだった。
城ヶ峰が周囲を確認する。
「開けられるのか」
「局所接続装置だけでは足りません」
日下部は白線の中央を見る。
そこには、かすれた文字が浮かんでいた。
《名前》
木崎が気づく。
「誰の名前だ」
「この入口を作った人間か、ここへ入る人間です」
日下部は迷わず言った。
「雲賀匠」
白線が少し強くなる。
だが、扉は開かない。
「足りない」
城ヶ峰が言う。
日下部は頷く。
「名前だけでは駄目です」
「場所と、現在の選択」
木崎が壁へ向かって言った。
「ここは、湾岸旧研究施設」
反応が強くなる。
城ヶ峰も続けた。
「我々は、雲賀匠の身体側固定点を確認するために来た」
白線の中央に、三つ目の文字が浮かぶ。
《目的確認》
それでも開かない。
日下部は気づいた。
「最後は、入る側の選択です」
城ヶ峰が聞く。
「誰が答える」
「ここへ入る者です」
「なら、俺が言う」
木崎が一歩前へ出た。
城ヶ峰が止めようとする。
「中に何があるか分からない」
「だからお前たちが後ろにいるんだろ」
木崎は白い壁を見る。
匠が隠していた場所。
長い間、誰にも話さなかった研究。
そこに本人の身体へ繋がるものが残っている。
「俺は中に入る」
木崎は言った。
「雲賀匠を現実へ戻す手掛かりを探す」
白線が一気に輝いた。
コンクリートの壁が消えたわけではない。
表面に白い亀裂が入り、その奥から暗い階段が現れた。
最初からそこにあったようにも見える。
今、作られたようにも見える。
階段は地下へ続いていた。
◆ ◆ ◆
【湾岸旧研究施設/地下通路・午後】
特殊部隊が先行する。
壁と床はコンクリートだが、途中から金属製の通路へ変わった。
照明は消えている。
隊員たちの携帯灯だけが、細い通路を照らす。
日下部は局所接続装置を持ち、木崎と城ヶ峰の後ろを進んでいた。
「妙ですね」
「何がだ」
城ヶ峰が聞く。
「空気が古くありません」
木崎も気づいていた。
長く閉鎖されていた施設なら、埃や湿気、腐食した臭いが強いはずだった。
だが通路の奥から流れてくる空気は冷たく、わずかに機械の熱が混じっている。
「誰かが使っている?」
「人がいる反応はありません」
日下部は答えた。
「施設の一部だけ、時間の流れが止められている可能性があります」
通路の左右には、小さな研究室が並んでいた。
割れた端末。
空の棚。
床へ落ちた紙。
壁には、匠と白峰が大学時代に使っていた記号が残っている。
《退避》
《未確定情報》
《処理保留》
《戻り先保持》
木崎は一枚の紙を拾った。
文字は薄いが、匠の筆跡だと分かる。
『層へ逃がした情報は、必ず現実側の固定点を残すこと』
その下には、別の筆跡がある。
『固定点は制約になる。自律層には不要』
白峰の字。
木崎が低く呟く。
「この頃から、意見が分かれてたのか」
匠は戻る場所を残そうとした。
白峰は、現実から独立した層を作ろうとした。
同じ研究をしていても、目的は少しずつ違っていた。
日下部が通路の先を示す。
「反応が強くなっています」
最奥には、厚い金属扉があった。
扉の上部に文字が刻まれている。
《身体側固定室》
木崎が城ヶ峰を見る。
「当たりだな」
「まだ中身を見るまでは決めつけるな」
扉には取っ手がない。
電子錠もない。
中央に、手のひらほどの黒い板が埋め込まれている。
日下部が局所接続装置を近づけた。
白い線が黒い板へ移る。
《接続対象》
《雲賀匠》
《身体位置・未確定》
《意識位置・補助層》
《現在選択・帰還》
最後の文字を見て、木崎が目を細めた。
「匠が帰るって決めたことが、こっちにも届いてる」
「はい」
日下部は端末の数値を確認する。
「補助層側の選択が、固定室へ伝わっています」
城ヶ峰が言う。
「開けろ」
日下部は黒い板へ触れないまま、装置を接続した。
白い光が扉の縁を走る。
低い音。
長く閉じられていた扉が、ゆっくり左右へ開いた。
◆ ◆ ◆
【湾岸旧研究施設/身体側固定室・午後】
室内は思っていたより広かった。
中央に、人一人が横たわれる大きさの保存槽がある。
透明な蓋。
内部には白い霧のようなものが満ちていた。
だが。
人間の身体はなかった。
木崎が保存槽へ駆け寄る。
「空じゃないか」
城ヶ峰は周囲を確認する。
「ほかに装置は」
特殊部隊が室内を調べる。
壁際には複数の端末。
床には円形の線。
保存槽から天井へ伸びる太い導線。
しかし、人間の姿はどこにもない。
木崎は歯を食いしばる。
「身体側固定点って書いておいて、本人がいないのかよ」
「待ってください」
日下部は保存槽へ近づいた。
端末には生命反応がない。
呼吸も体温も検出されない。
それでも局所接続装置は、保存槽の中央を指し続けていた。
白い点滅。
一度。
二度。
三度。
その間隔に、日下部は覚えがあった。
「心拍に似ている」
城ヶ峰が振り返る。
「匠のか」
「断定はできません」
日下部は保存槽へ端末をかざす。
通常の画面では何も出ない。
そこで現実側の座標表示を切り、補助層とのずれだけを表示する。
保存槽の中に、淡い人型の輪郭が現れた。
一瞬だけ。
横たわる成人男性。
次の瞬間には消える。
木崎が息を呑んだ。
「今のを見たか」
「はい」
日下部は表示を繰り返す。
輪郭が出る。
消える。
また出る。
現実世界にはいない。
だが、完全に別の層へ移ったわけでもない。
保存槽と重なる位置に、身体の形だけが残っている。
「身体はここにあります」
日下部は言った。
「ただし、現実側には完全に出ていない」
城ヶ峰が尋ねる。
「どういう状態だ」
「折り畳まれている」
日下部は言葉を選んだ。
「現実世界と補助層の間に、身体だけを保留する小さな層があります」
「匠さんの意識が補助層へ移った時、肉体を死なせないためにここへ逃がした」
木崎が保存槽を見る。
「取り出せるのか」
「今は無理です」
「なぜだ」
「身体だけを引き出せば、意識と繋がらない可能性があります」
日下部はユナの帰還記録を思い出していた。
身体。
名前。
現在位置。
本人の選択。
すべてを同時に戻さなければならない。
匠の場合はさらに複雑だった。
意識の一部が補助層を維持している。
無理に身体へ戻せば、補助層が崩れる。
補助層が崩れれば、異世界側との接続や、
ハレルたちの帰還経路まで失われる可能性がある。
「まず、身体保留層の構造を調べます」
日下部は言った。
「匠さん本人とも同期する必要があります」
木崎は保存槽の透明な蓋へ手を置こうとした。
だが、城ヶ峰が腕を掴む。
「触るな」
「中に匠がいるんだぞ」
「だからこそだ」
城ヶ峰は低く言った。
「ここへ来たことを、敵が知っている可能性がある」
その言葉と同時に。
室内の照明が一度だけ点いた。
誰も電源を入れていない。
壁際の古い端末へ、黒い文字が表示された。
《観測開始》
特殊部隊が一斉に武器を構える。
日下部が端末を切り離す。
「Cです」
画面に黒い円が広がった。
その中央に、保存槽の輪郭が映る。
《身体側固定点を確認》
《対象・雲賀匠》
《身体反応を検出》
城ヶ峰が指示する。
「全端末を遮断!」
隊員が電源ケーブルを抜く。
だが文字は消えない。
電源のない画面に、そのまま表示され続ける。
Cは外部回線から入っているのではない。
この施設に残された古い補助層の構造を通じて、内側から観測している。
《身体回収手順を解析します》
日下部の表情が変わる。
「駄目です」
「何がだ」
「Cに先に解析されたら、匠さんの身体側固定点を奪われます」
木崎が保存槽の前へ立つ。
「奪うって、身体をか」
「身体そのものだけではありません」
日下部は黒い表示を見る。
「ここを別の意識の戻り先に書き換えることもできます」
一瞬。
白峰律の名前が、画面の端に浮かんだ。
すぐに消える。
木崎はそれを見逃さなかった。
「まさか」
匠の肉体。
まだ現実へ戻っていない意識。
その間にある空白。
もし身体側固定点を書き換えられれば。
別の誰かが、その身体へ入ることもできる。
城ヶ峰は即座に命じた。
「この部屋を封鎖する」
「保存槽の周囲に物理隔離を作れ」
「日下部、Cの観測を切れるか」
「完全には無理です」
日下部は局所接続装置を操作する。
「ですが、匠さんの本人選択を固定すれば、別の意識へ書き換えることは防げます」
「どうする」
「異世界側へ連絡します」
白い通信線を開く。
だが、ノノから返事が来る前に、画面へ別の文字が現れた。
《異世界側通信・移動中》
《主鍵保有者・王都外縁へ接近》
Cは同時に、ハレルたちの動きも見ていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/保護施設前・夕方】
馬車が石造りの建物の前で止まった。
高い塀。
小さな中庭。
外から見れば、病人や戦災者を保護するための静かな施設だった。
ハレルたちは馬車を降りる。
ヴェルニが周囲を確認する。
「妙だな」
リオも気づいた。
「警備が少ない」
門の前には兵士が二人いるはずだった。
だが、一人しかいない。
その兵士も、落ち着かない様子で何度も建物の中を見ている。
ハレルが近づく。
「何かあったんですか」
兵士はアデルの部隊証を確認してから答えた。
「中の保護者が一人、急に騒ぎ始めました」
「名前のない男か」
「はい」
兵士は頷く。
「少し前まで、いつもの言葉を繰り返していただけです」
「ですが、急に立ち上がって、こう言い始めました」
兵士の顔に不安が浮かぶ。
「誰かが来る」
「鍵を持った者が来る、と」
ハレルの胸元で、主鍵が熱を持った。
サキのスマホでは、reが強く光っている。
だが、その白い線は男のいる部屋へまっすぐ向かわなかった。
建物の周囲を大きく回り、何かを避けるように揺れている。
リオが右手首の副鍵へ触れた。
「俺たちが来ることを、もう知ってる」
ヴェルニが剣を抜く。
「誰が教えた」
建物の奥から、男の叫び声が聞こえた。
「次の駅で降りる!」
「帰らなければならない!」
続けて。
それまでの記録にはなかった言葉が響く。
「鍵を――」
ハレルたちは顔を見合わせた。
男は、確かに鍵という言葉を口にした。
しかし。
それが本人の記憶なのか。
誰かに与えられた言葉なのか。
まだ分からない。
reの白い光が、入口の前で止まる。
建物の中へ入るなと示しているのか。
それとも、別の道を探しているのか。
ハレルは主鍵を握った。
「急ぐぞ」
ハレルたちは、名前を失った男のいる建物へ踏み込んだ。
コメント
1件
読み終えました。今回は現実側の身体を探す回でしたね。保存槽に人の形が一瞬だけ浮かぶ描写、すごく好きです。現実と補助層の間に“折り畳まれている”って表現、匠さんの状態をぴったり表していて、ゾクッとしました。Cが内側から観測しているところも不気味で、ハレルたちの異世界側とも繋がりそうな終わり方、続きが気になります。お疲れ様です、橘さん。