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「もうっ、急に言われたら焦っちゃう」
ホテル代が入っているかを、確認しているのだと思う。
「美佳、こんなに都合よく呼び出されてるの?」
「そうなの。困っちゃう。だからさ? 服とか下着とか、気を抜けないんだよねぇ」
もはや、声を潜めてもいない。
美佳は財布をバッグにしまうと、スマホは手に持ったまま立ち上がった。
「ね! 変なとこない?」
耳にかかる髪を手櫛で整えながら聞く美佳を、私は見上げた。
「うん、大丈夫」
「良かった! じゃ、行くね。また誘って!」
上機嫌でひらひらと手を振り、美佳は店を出て行った。
テーブルには、伝票と千六百四十円。
二十円足りないし……。
窓の向こうに、美佳の姿が見えた。
きょろきょろと行き交う車を見ている様子から、タクシーを捕まえようとしているのだとわかった。
タクシーでラブホテルに乗り付けるって……。
隣のテーブルの女性も美佳を見ていた。
一人は呆れ顔で、一人は含み笑いしながら。
いい年をして恥ずかしくないのかと、思っているのだと思う。
当然だ。
私もそう思う。
年齢はさておき、子供三人を育てる母親が、不倫にハマってパートを辞め、子供のために貯めたお金でジムに通い、不倫相手に可愛がってもらおうと必死なのは、呆れもするし、滑稽でもある。
遊びだと割り切るのなら、せめて家庭に影響を及ぼしてはいけない。と私は思う。
きっと、史子はそうだった。
美佳を不倫に誘うまでは。
やっぱり、解せない。
美佳がタクシーを停め、乗り込んで走り去ったのを見て、私は彼女が置いて行ったお金を財布に入れた。
そして、伝票を持ってレジに向かう。
会計をして店を出ると、それまで晴れていた空が少し暗くなっていた。
見上げると、灰色の雲が頭上を覆っていた。
ゴロゴロと微かに聞こえた気がした。
雨が降りそうだ。
私は急いで駅に向かった。
美佳からのメッセージに気が付いたのは、電車に乗ってからだった。
〈ごめんね、ゆっくりできなくて。また、誘ってね! あと、飲み会のこと考えておいてね!〉
返事をしなかった。
返事をしても、きっと読まれない。
限られた時間で抱き合うのに忙しいだろうから。
スマホをバッグにしまって、ふぅと息を吐いた。
少しでもモヤモヤが減るように、もう一度息を吐く。
もう、誘わないよ。
返信の代わりに、胸の奥で呟いた。
子供がいないから自由だと言われた。
私だって、産みたかった。
せっかく子供がいないのだから、と二回言われた。
望んで子供を産まなかったわけじゃない。
『たった一度の人生だし? 自分のことも大事にしてあげたいじゃない』
美佳の言葉を思い出して、ギリッと奥歯を噛んだ。
自分を大事にするために、家族を蔑ろにするの?
子供を三人も授かって、それを自分以上に大切にすることが『枯れる』ことになるのか、理解できない。
それはきっと、私に子供がいないから。
でもそれは、美佳のせいじゃない。
何も知らない美佳を憎むのは筋違いだ。
だからといって、聞かなかったことにできるほど、私は寛容じゃない。
だから、言ってあげない。
不倫はダメだ。
家族にバレる前にやめるべきだ。
子供たちのことを考えてあげてほしい。
そんな当たり前の言葉を全て、胸の奥に残っているモヤモヤに包んで、私は大きく、ゆっくりと息を吐いた。
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