記憶と花言葉
そして、私は知ることになる。
花が毎朝そこにある理由を。
ガチャ──。
朝の光の中、ゆっくりと扉が開いた。
昨日の彼……ではなかった。
白衣の裾を揺らしながら入ってきたのは、
この病院の担当医だった。
「おはよう。よく眠れた?」
「……はい。あの、先生……今日の花……これ、誰が?」
私が問いかけると、先生はふっと微笑んで、
花瓶のワスレナグサに触れた。
「君は、本当にこの花を気に入っているんだな。」
その言い方が、何かを含んでいるように聞こえた。
胸がざわっと鳴る。
「先生、知ってるんですか? 毎日誰が置いていくのか。」
一瞬、先生の手が止まった。
わずかな沈黙。
でもそれだけで、胸の奥の何かが警鐘のように震えた。
「……君の恋人が来たんだろう?」
「はい! 昨日……来てくれました。優しい人で……」
先生は静かに目を伏せた。
その仕草が、綺麗すぎて、残酷の予感がした。
「……先生?」
「ごめんね」
それは、昨日の“彼”と同じ言い方だった。
胸が、嫌な音を立てる。
「……え、なんで謝るんですか?」
先生はゆっくり私の方を向き、
いつになく真剣な声で言った。
「君の恋人は……三ヶ月前の事故で亡くなっている。」
──世界が揺れた。
病室の色が、一瞬だけ音を失ったみたいに消えた。
「……え……?」
「昨日……来て……」
「だって……」
喉が震えて、声がうまく出なかった。
先生は穏やかな目をしていたが、
その奥に悲しみが確かにあった。
「君がずっと、目を覚ますのを待っていた。
……でも、その願いは叶わなかった。」
私は、呆然と花瓶を見つめた。
ワスレナグサが光を吸い込むように
青く揺れていた。
『その花、飾ったの俺だよ』
昨日の声。
柔らかい笑顔。
あの体温。
全部、確かに“あった”のに。
「……じゃあ……私は……昨日……誰と……?」
震える声に、先生は答えなかった。
ただ、花瓶をそっと指差した。
「その花はね、事故の前……君の恋人が毎日持ってきていた花なんだよ。
“記憶を取り戻せますように”って。」
胸が熱くなる。
涙が視界にじんでいく。
「……じゃあ……昨日見たのは……?」
「君が見たのは……“忘れられなかった想い”なのかもしれない。
人は、大切な人の気配を、たまに夢と現実の境界で見てしまうんだ。」
現実味がない。
信じたくもない。
でも、昨日の彼の最後の横顔──
あの“何かを抱えた微笑み”が、
胸を刺した。
『……ありがとな』
あれは、“さよなら”の声だったのだと、
今になって気づいてしまう。
涙が、ぽたり……と花瓶に落ちた。
「……会いたいよ……」
呟く声は震えて、幼い子どもみたいだった。
先生は、
そっとティッシュを差し出しながら言った。
「それでも毎朝花があるのは──
君の心が、まだ誰かを待っているからだよ。」
私は涙で濡れたまま、もう一度花を見つめた。
──『私を忘れないで』
どうして今日、この花なのか。
ようやく理解した。
その時だった。
ガチャ。
また扉が開いた。
静かな気配とともに、誰かが立っていた。
白く揺れる光の中、
昨日と同じ声が聞こえた気がした。
『……おはよう』
私は顔を上げた。
──そこに誰が立っていたのか。
真相は、まだ靄の中にある。
けれど、花言葉だけが、そっと私の胸に刺さり続けていた。
“ 私を忘れないで “
コメント
4件
この神のせいで頭痛するわ(?)
この小説のおかげでワスレナグサ大好きになりそう…💭🎀