見渡す限りの大草原。
青空から陽射しが降り注ぐ中、西から吹き降りる風がその地を撫でる。
イダンリネア古戦場。この地名に偽りなく、人間と巨人族から流れ出た血液が、大地を赤く染め続けた。
終戦後、当時の王は地名の変更を宣言。以降、この地は新たな名前を得た。
マリアーヌ段丘。
その由来を知る者はいない。千年以上も過去の出来事な上、王の独断によって決定されたことから、資料の類は一切見当たらない。
(全然いないな。ぼちぼち一時間くらいは歩いてるのに。アゲハさんが限界かも……)
頭髪は周囲の若草と同色だ。
長袖のカーディガンも本来は緑色なのだが、今ではすっかり色褪せており、いささかみすぼらしい。
黒一色の長ズボンからも年季が感じられる。膝部分の穴はおしゃれではなく経年劣化が原因だ。上着同様、あちこちがすり減っており、本来ならば買い替えを検討すべきだろう。
この少年は十八歳の若者だ。顔立ちはいくらか幼いものの、ここまでの道のりは決して平たんではなかった。
今は探し物の最中だ。地面と草の匂いを吸い込みながら、前だけを向いて歩いている。
本来ならば左右も見渡すべきだ。
そうしない理由は、単純に必要ない。野生の勘が魔物の位置を鋭敏に捉えてくれるため、索敵の最中は視界から得られる情報に頼らない。
少年は傭兵だ。魔物という脅威を退け、生計を立てている。
いつ死ぬかもわからない危険な仕事にも関わらず、収入は不安定な上、低い水準に落ち着いてしまう。
それでも転職しない理由は浮浪者だからだ。教養はいくらかあるものの、その身分が一般職に就くことを許可しない。
エウィン・ナービス。差別階級にくだりながらも不貞腐れずに歩けている理由は、死に急いでいるのか、それ以外の生き方を知らないからか。
どちらにせよ、今日は一人ではない。隣にはアゲハが同行しており、今回の外出は彼女のためだ。
(少し出遅れただけで、こうなるのか。わかってはいたけど、シビア過ぎる。こんな場所でよくもまぁ十年以上もウサギ狩りをやれたもんだ、自画自賛)
少年は歩みを止めず、心の中で自分を褒める。
目の前の風景は、どこまでも続くでこぼこの野原。東の海岸が海抜ゼロメートルに対し、西へ進むにつれて徐々にその高さが増すという構造だ。
つまりは広大な傾斜地帯とも言えるのだが、小さな丘があちこちに点在しており、見渡せる範囲は想像よりも狭い。
(試験のノルマはたったの三体。だけど、思ってたより時間かかるかも……)
アゲハを傭兵にするため、今日は傭兵試験に挑戦する。
彼女の決意表明をきっかけに二人はマリアーヌ段丘に出陣するも、本来ならば昨日の内に済ますことも可能だった。
そうしなかった理由は、彼女が寝込んでしまったためだ。
脚が太い。
エウィンの屈託ない発言がアゲハの心をえぐったため、昨日という一日は寝込んで終わってしまった。
悪気はない。
むしろ褒めたつもりでいる。
そうであろうと女性に面と向かってぶつける発言ではなかった。
乙女心を学べたとは言え、エウィンとしてはただただ反省だ。
(魅力的だと思うんだけどなぁ。むっちむちしてて。むしろ細い脚はなんかやだ)
視線をこっそり動かし、隣のアゲハを盗み見る。
相も変わらず、ジーパンは暴力的なまでにパンパンだ。エウィンの目には健康的に映るも、どう捉えるかは人それぞれと言う他ない。
(死ぬまでに一度でいいからツンツンしてみたい。叶わぬ願いなんだろうけど……)
二人は夫婦もなければ恋人でもない。
出会ってまだ日は浅いが、友人以上ではあるのだろう。互いが互いを必要としており、そういう意味では深い間柄だ。
そうであろうと、お触りは許されない。
「あ、あの……」
弱々しい声だ。柔らかな声質ではあるものの、自信の無さが声量を下げてしまう。
エウィンは視線を前方に戻していたため、語らうついでに改めて顔を向ける。
「どうしました?」
「私にも、魔物を倒せるの、かな?」
当然の疑問だ。
日本人として、魔物と相対した者はいない。
前代未聞の状況ゆえ、彼女こそが先駆者だ。不安を抱かない方が無理と言えよう。
「アゲハさんは魔法が使えますから、多分大丈夫だと思います。青いフレイムなんて聞いたことありませんが、火力は申し分なさそうですし、何よりかっこいいし」
「え、そうかな……」
エウィンの率直な感想が、アゲハの頬を赤く染める。草原ウサギを狩れる根拠は何一つ示せてはいないものの、彼女の自己肯定感が高まったことは間違いない。
アゲハは火照った顔を、両手でそっと包む。
幸せだ。他人から褒められた経験など一切なかったため、心情を表すように表情筋が緩んでしまう。そういった意味でも顔を覆わずにはいられなかった。
傭兵はその素振りを見落とす一方、己の役割だけは果たしてみせる。
「あ、魔物の気配。草原ウサギで間違いない……はず」
青草の風に前髪を泳がせながら、エウィンは右方向を凝視する。
その方角には茶色い小丘しか見当たらない。
しかし、そうではないとレーダーが教えてくれた。
マリアーヌ段丘には草原ウサギしか生息していない。ゴブリン族が極稀に進出することもあるのだが、エウィンでさえ十一年間で一度切りの経験だ。
ならば、この気配は今回の標的で間違いない。
ノルマは三体。
その内の一体目がついに見つかったのだから、逸る気持ちをついに解放する。
「アゲハさんはここで待っててください。捕まえて来ますので」
「つかまえ……、え?」
この瞬間、エウィンの姿が音もなく消え去る。
置き土産の突風がアゲハの長髪を乱すも、彼女に呆けている時間など与えられなかった。
なぜなら、濡羽色の髪が落ち着くよりも先に、少年は手品ように帰還を果たす。
「いましたしました。はい、一体目です」
手ぶらではないと主張するように、右手には戦利品が握られている。
長い耳を掴まれ、ダランとぶら下がる姿は滑稽と言う他ない。
全身を薄茶色の体毛で覆われており、この状況に困惑しながらも足をばたつかせる姿は魔物というよりは小動物そのものだ。
そうであろうと警戒を怠ってはならない。
可愛げのある足は見た目に反して人体の破壊が可能だ。アゲハの体脂肪が平均を上回ろうと、皮下脂肪だけでは防ぎきれない。
「このまま持っておきますので、フレイムをどうぞ」
つまりは焼き殺す。方針としては正しいのだが、エウィンは彼女のことを何一つ知らなかった。
「う、うん……」
「え、近寄らずともそこからで構いませんよ」
一歩を踏み出したアゲハに対し、少年は仰け反るように怯んでしまう。
意思疎通が出来ていないのではなく、能力の把握が済んでいない。
ゆえに、両者が首を傾げるのは必然だった。
「わたしの、魔法、触らないと、ダメだから……」
先ほどはアゲハが驚かされたが、今度はエウィンの番だ。
なぜなら、ありえない。
そのような制限は魔法には存在しておらず、そもそも攻撃魔法とは離れた位置からの一方的な殺傷を可能とする神秘だ。
そのはずだが、彼女は近寄ろうとした。
発動条件を満たすためだが、突然のカミングアウトにはさすがの傭兵も目を丸くしてしまう。
「言われてみれば、あの時も……。だけど、魔法なのに何で?」
ウサギをぶら下げながら自問自答だ。
以前、ゴブリンと遭遇した際、エウィンは矢に射られてしまった。
腹部と喉にそれぞれ撃ち込まれるも、それらをアゲハが取り除いた。
灰すら残さない、完全なる焼却。それこそが彼女の青い炎の特性なのだが、矢が燃えたタイミングは彼女の指先が触れた時だった。
傷の治療に関しては患部に触れずにやってのけたが、その際も彼女の手のひらが服越しに背中を触っていた。
物理的な接触がトリガーであるという裏付けだ。
今回に関しては、エウィンが確認を怠ったとも言えるのだが、前例のない能力に加え、魔法であるという思い込みがそうさせてしまう。
もっとも、慌てる必要などない。
ましてや、方針の転換さえ不要だ。
触れば燃やせるのならば、そうしてもらう。
「んじゃ、試しにやってみましょう」
エウィンは一歩を踏み出す前に、手ぶらな左手から動かす。草原ウサギの両脚を握るためであり、そうすることでこの魔物を完全に拘束する。
「わ、なんか、ちょっとかわいそう……」
「自分でやっといてなんですが、確かにそうですね。酷い絵面……」
人間で例えるならば、両腕を頭上で縛られ、あまつさえ両脚さえも動かせない状況だ。
さらにはそのままの姿勢で宙づりを強要されているのだから、ウサギ特有のシルエットも相まって暴力的な光景が出来上がる。
しかし、これは魔物だ。出現したばかりの個体だろうが、既に人間を殺している可能性は捨てきれない。
情けは不要だ。
ましてや、傭兵は仕事として毎日のように魔物を殺す。
当時、七歳だったエウィンが包丁を突き立てたように、アゲハも試験に合格するという利己的な理由から、眼前の生贄を殺さなければならない。
大事な一歩だ。これが出来るか出来ないかで、その後の人生を左右する。
殺せてしまった場合、当然ながら道を踏み外す。言い方を変えるなら、真っ当な生き方は出来ないということだ。
殺すか殺されるかの世界に足を踏み入れるのだから、その先に平穏な日常など待ってはいない。
一方、もしも殺せなかったのなら、まだ引き返せる。
眼前のそれは魔物とは言え、見た目だけなら丸々としたウサギだ。日本では愛玩動物として扱われていたのだから、躊躇して当然だろう。
アゲハにとって、ここは境界線だ。
前に進めば、その手は血に染まる。
足を後退させれば、もしくは直立を維持していれば、壁の中で今まで通りの日常を送れる。
ここは線上だ。
そして、その先は戦場だ。人間と魔物が雌雄を決するため、日夜殺し合いに興じている。
明日、生きて帰れたとしても、明後日の結末はその時にならなければわからない。
怪我をするかもしれない。
死ぬかもしれない。
傭兵はそういう職業だ。
だからこそ、異常者でなければ務まるはずもない。
もしくは、それ以外の選択肢を見出せなかった者か。
この少年は、これしか選べなかった人間だ。
故郷を追われ、両親も失い、行き着いた場所が貧困街。六歳の子供が薄汚れた姿で仕事を請おうと、採用する国民などいるはずもなかった。
浮浪者ならば猶更だ。
言わば、国が用意した差別階級であり、不満のはけ口として生かさず殺さずの境遇に落とされている以上、這い上がるためにはその手を汚すしかなかった。
エウィンは傭兵だ。
草原ウサギしか狩れない最弱の傭兵だったが、今は違う。アゲハとの邂逅が奇跡を呼び込み、今では広大な大陸へ羽ばたこうとしている。
ならば、彼女は迷わない。提示された選択肢の中、当然のようにそれを選ぶ。
(一緒に、いたい)
シンプルな願望だ。
やるべきこともわかっている。
ゆえに、右手はスムーズに動いてしまう。
しなやかな指先が、草原ウサギの腹部に触れた瞬間だった。小さな魔物は一瞬にして、青い炎に全身を焼かれる。鳴き声をあげる猶予すら与えられず、ウサギは体毛の一本すら残さずそこから消え去った。
煤すら残さない、完全なる焼却。これこそがアゲハに与えられた神秘であり、その威力は今まさに証明された。
そして、エウィンを驚かせるには十分な実演でもあった。
「ビックリ……。僕も燃えちゃうかと思ったけど、なんか大丈夫でした」
「あ、ごめん、なさい。私の炎は、触ったものだけを燃やすみたい……」
魔物の耳と足を掴んでいたのだから、炎は少年の両手を炙ってしまった。
しかし、無傷だ。
それどころか、熱さすら感じなかった。
「何を燃やすかも自由に選べるなんて、その点もフレイムとは違うんですね。しかも、火力も圧倒的。丸焼きを想像していましたが、塵一つ残らないなんて……」
傭兵が唸るのも無理もない。
生焼け、もしくは黒焦げの死体を想像していたものの、実際には完全に燃え尽きてしまった。
灰すら残ってしないのだから、初めからここにいなかったと錯覚するほどの芸当だ。
火の攻撃魔法、フレイムでは真似出来ないだろう。詠唱者の魔力がどれほど高くとも、そこには焼死体が残ってしまう。
この状況は、エウィンにとって誤算に他ならない。死体を持ち帰り、売却するという思惑が塵となったのだから、アゲハの炎には唸るしかない。
「なんにせよ、先ずは一体。この調子でどんどん行きましょう」
「あ、うん」
鼓舞するように少年は歩き出す。
今回の狩りは小銭を稼ぐためではなく、傭兵試験を突破するためだ。
それをわかっているからこそ、必要以上に落ち込まない。
雄大な草原を連れたって歩く二人ながらも、アゲハは心の中で一人静かに謝罪する。
(ごめんね、ウサギさん。わたしは、人間だから……)
殺めたことに後悔はない。
それでも、わずかな罪悪感を抱いてしまう。
相手は魔物なのだから、理由もなしに殺し合って構わない。
しかし、それはこの世界の住人だからこその思考であり、彼女はまだ日本人のままだ。
それでも、燃やした。
躊躇なく、その命を奪った。
それも一重にエウィンのためであり、何より己のためだ。
自身も傭兵になれば、収入が上がるかもしれない。
さらには、日中も一緒にいられる。魔物狩りに同行出来るのだから、彼女にとってはこちらこそが本音だ。
エウィンに養われるだけの生き方を否定したいわけではない。
この少年に恩を感じているからこそ、力になりたいという感情は本物だ。
同じ時間を共有したいという願望はプラスアルファの部分であり、この心情の源泉については本人さえも無自覚だ。
(傭兵になりたいから……。この人の役に立ちたいから……。だから、わたしはあなた達と戦う。あ、ゲームだと確か、こういう時ってレベルが上がるんだっけ? てれれてってー、アゲハはレベルが上がった。ウエストが少し引き締まった。お尻もきゅってなった。胸は、胸は……、どっちがいいの⁉)
彼女にとっては大問題だ。
自身の胸が大き過ぎることは重々承知している。肩が凝るばかりか、猫背もその一つだろう。
可能ならば、体が引き締まるタイミングで乳房の縮小も希望したい。
しかし、そうもいかない。
(エウィンさんは、大きい方と小さい方、どっちが好みなんだろう? 何となく、大きい方が良さそう、だけど……)
その予想で概ね正しい。
現時点で類を見ない大きさながらも、それゆえにエウィンは釘付けだ。
胸の大きさで女性を評価する少年ではないものの、他者を上回る膨らみはそれ自体が武器となる。
せっかくの利点なのだから、持ち味として少なくとも現状維持を望むべきか。
(傭兵として、働きだしたら、わたしって少しは痩せられるの、かな? お腹のぷにぷにとか、あれだし……)
三年近くも引きこもっていた弊害だ。
体脂肪だけがスクスクと育ってしまい、今では大学時代の衣服すらサイズが合わない。
ジーパンは、紐で縛られたボンレスハムのようにパンパンだ。
上着代わりのジャージについても、胸が邪魔でファスナーが上がりきらない。
肥満というほど太ってはいない。平均値よりやや上な程度だ。
「お、二体目いましたよ! さっきみたいに捕まえてきます!」
「あ、うん、お願い……」
傭兵になる。
この散策はそのためのものだ。
ノルマは三体、残りは二体。
今日という一日はまだ始まったばかりゆえ、自分達のペースで歩けばよい。
とは言え、これはデートではない。草原ウサギを狩るために戦地へ赴いているのだから、本来ならば緊張感と危機感を保つべきだ。
そのはずだが、アゲハの心は満たされている。
エウィンと一緒にいられる。
たったそれだけのことながらも、彼女にとってはとても大事なことだった。
慕情とは、そういうものだ。
◆
「お待たせしました、手続きは以上となります。改めて、こちらのギルドカードを配布致します。おめでとうございます。アゲハさんはたった今から、等級一の傭兵です」
事務的な受け答えながらも、ここがどこで、眼前の女性が何者かを考えれば、至極当然な対応だ。
ギルド会館、その右奥に用意された受付カウンター。傭兵が依頼を受注および報告する場所であり、昇進の際もここで手続きを行う。
彼女は窓口の向こう側に座っており、着ている服は職員用の制服ながらも、そのデザインは秀逸だ。茶色をベースとした白模様の色彩は、野暮ったい荒くれ者と比べると清潔感さえ感じさせる。
緑色の髪は非常に長く、二人からは死角になっているためわからないが、椅子の座面よりもさらに下まで垂れ下がるほどだ。
「あ、ありがとう、ございます」
差し出された四角いカード。それを眺めながら、アゲハは怯むように頭を下げる。
眼前のそれはギルドカードだ。傭兵組合が発行している身分証であり、傭兵ならば必ず所持している。
アゲハは車の免許証を思い浮かべるも、その認識で正しい。
試験を受け、合格した者だけが持つことを許される。彼女もこの瞬間から、魔物狩りで生計を立てることが可能となった。
「それでは、お時間よろしければ、今から傭兵制度について説明させて頂きます。あ、エウィンさんのお知り合いでしたら不要でしょうか?」
ここからは勉強の時間だ。
傭兵と言えども、ルールは多数存在する。
依頼の受け方、選び方。
チームを作るメリットと申請手順。
等級制度。
ギルド会館の営業形態。
その他もろもろ、傭兵ならば知るべき教養はいくらでもあるのだが、女性職員の言を受け、隣の少年が口を開く。
「そうですね、僕から説明します。アゲハさんもそれでいいですか?」
「う、うん、よろしく……」
以上で手続きは終了だ。
二人は職員に礼を述べつつ受け付けを後にすると、空っぽな腹を満たすため、建物の反対側を目指す。
現在は昼過ぎと言うこともあり、食堂サイドは大賑わいだ。傭兵は体が資本なため、食事を疎かにする者はいない。
「思ったよりは時間かかっちゃいましたけど、無事終わって良かった良かった」
エウィンとしても満足のいく結果だ。午前いっぱい費やしてしまったが、草原ウサギを三体狩れたのだから目的は無事達成だ。
だからこそ、アゲハも傭兵になれた。その事実が彼女を委縮させつつも、同時に頬を赤らめさせる。
「エウィンさんの、おかげ……。ありがと……」
「いえいえ。持ちつ持たれつと言うことで、お互いがんばりましょう」
アゲハは戦力としては半人前だ。
そのこと自体は両者共通の認識ながらも、それでもなお、この少年は本心から喜んでいる。
なぜなら、一人から二人になれたことで得られる恩恵が非常に大きい。
その最たるが、依頼の受注数増加だ。
傭兵は一人につき一つの依頼しか受けることが出来ない。
その数が二つに増加するのだから、活動の幅は間違いなく広がってくれる。
それ以上の利点が、彼女の使える能力だ。
アゲハは触れるだけで、傷を癒せる。回復魔法ではないのだが、結果だけを切り取れば同様と言えよう。
魔物に噛まれようと。
引っかかれようと。
問題ない。彼女さえそこにいててくれれば、どんな傷も瞬く間に治してもらえる。
この恩恵は想像以上だ。
魔物と戦う以上、負傷は避けられない。
十一年、草原ウサギに痛めつけられたことから、エウィンも重々承知している。
今まではマリアーヌ段丘を狩場としていたことから、あっという間に帰国が可能だった。
ウサギのドロップキックを避けきれず、腕やあばら骨を折られることも珍しくはなかったため、ある意味で負傷には慣れっこだ。
そうであろうと、回復魔法には羨望の眼差しを向けてしまう。
一切の医療行為を省略し、あっという間に傷を治す奇跡。それが回復魔法であり、傭兵でなくとも誰もが望んで然るべきだ。
アゲハも同種の能力を宿している。
それゆえに、エウィンとしても既に彼女は貴重な戦力だ。戦闘には巻き込めないが、いてくれるだけでありがたい。
(ただまぁ、狩場までの移動を考えないとな……)
依頼を受注した傭兵は、次のステップとして目的地を目指さなければならない。
マリアーヌ段丘だけでも、その広さは日本の都道府県一つ分に匹敵する。お目当ての魔物が草原ウサギでないのなら、この草原地帯はただの通過点だ。
エウィンは一、二時間で駆け抜けることが可能だが、アゲハは真似できない。
ゆえに、彼女は現状、足手まといだ。エウィン単身なら半日足らずで往復出来る旅路が、二人がかりだと一週間もしくはそれ以上かかってしまう。
(道中は僕がおんぶする? それならそれで構わないけど。普通は嫌がるよね?)
確かに不甲斐ない光景だ。
しかし、それ以外の手段がないのも事実であり、少年は掲示板エリアを素通りしながら思考を巡らせる。
(まぁ、いきなりの実践は苛酷過ぎるし、アゲハさんがどうしたいかが重要だから、話し合いながら考えよう)
脳内の作戦会議はあっさりと終了だ。
眼前からスパイスのきいた香ばしい匂いが漂ってきたため、頭の中は昼食のことしか考えられない。
正午をいくらか越えた時間帯ゆえ、この空間の賑わいは最高潮に達している。
ギルド会館の食堂区画。傭兵達の憩いの場であり、お昼時ということも相まって空席を探すことさえ困難だ。
多数のテーブルが規則正しく配置されており、その上にはお祭りのように料理が並べられている。
濃厚な匂いはそれだけで腹が膨れるほどだ。
音に関しては大通り以上に騒がしい。
フォークやスプーンが皿と接触した際の金属音。
話し声や笑い声。
さらには、視覚から得られる情報も濃厚だ。
傭兵ゆえに当然なのだが、彼らは仮装パーティのような出で立ちをしている。
灰色の鎧を着こんだ男。
銀色の胸部アーマーを身に着けた女。
真っ赤なローブをまとった男。
新調した短剣を嬉しそうに眺める女。
彼らにとって、武器は仕事道具であり、防具は最低限の身だしなみだ。
それゆえに、その姿は重々しいだけでなく、他者に威圧感を与えてしまう。
もっとも、ここはギルド会館。職員を除き、ほぼ全員がそういった姿をしているため、彼らこそが正常だ。
そういった意味では、エウィンとアゲハの方が異物かもしれない。
浮浪者のような少年。
ジーパンを履いた日本人。
かろうじてエウィンの短剣が言い訳になっているものの、鞘から抜けば飾りだとばれてしまうことから、後は態度で補うしかない。
堂々と歩く。アゲハには難しいことかもしれないが、少年は彼女を引率するように、隅っこの空席を目指す。
「ここにしましょう」
「あ、うん……」
小さなテーブル席には、椅子が向かい合うように置かれている。
片方にエウィンが座れば、対面がアゲハの席だ。
つまりは椅子同様に彼らも向かい合うしかないのだが、たったこれだけのことで彼女は毎回、照れてしまう。
一方、少年はただただ冷静だ。腹が空いていて気が付かないだけとも言えるのだが、眼前の女性を眺める素振りすら見せずに周囲を見渡し始める。
「何にしようかな~。ほんと、こうして外食が出来るなんて夢みたいです。それもこれもアゲハさんのおかげです」
この発言はお世辞ではなく、本心だ。
眼前の女性と出会うまでは、一日かけて草原ウサギを数体程度しか狩れなかった。
稼ぎは多い日ですら千イールに届くか否か程度。いかにギルド会館の料理が安いと言えども、毎日の利用など到底あり得ない。
しかし、今は違う。
ウサギ狩りを卒業し、今では依頼にすら挑むことが可能となった。
昨日もアゲハが寝込んでしまった後、エウィンはこの建物を訪れた。掲示板を眺め、良さそうな仕事を見つけるためだ。
選んだ依頼は、カニ退治。北西の森に生息する、ヤドカリのような魔物だ。
生息域は川辺付近だと知っていたため、初めて訪れる土地ながらも、苦労することなくカニ達を掃討してみせる。
得られた収入は五千イール。
決して高額とは言い難いが、以前と比べれば破格だ。その証左に、宿代を支払いながらもこうして昼食にもありつけている。
(まぁ、昨日の稼ぎも今日で使い切っちゃうんだけど。お昼食べたらもう少し稼がないとな。お、あれ美味しそう。カツ丼だっけ? 食べてみようかな?)
実感せざるを得ない。
傭兵はその活動の多くを金策に費やす。
食べるためにも。
武具を買うためにも。
金が必要だ。
自由のようでそうではない。この少年も強さを手に入れたところで、やるべきことは変わらないと納得させられた。
「僕はカツ丼にします。アゲハさんは決まりました?」
「あ、その、サンドイッチと、リンゴジュース、かな」
「わかりました」
彼女の返答を受け、女性職員に呼びかけると、二人分の注文を済ます。
後は料理が届くのを待つだけゆえ、ここからは談笑の始まりだ。
「草原ウサギを三体倒して、何と言うかこう、強くなれたって実感は得られました?」
「うん、なんとなく、体が軽くなった、ような……」
(それって何時間も歩き回ったから、少し痩せただけじゃ……。いや、黙っておこう。僕はどうやら失言しちゃうタイプの人間みたいだし……)
少年は笑顔で頷きながらも、出かかった言葉を飲み込む。
アゲハは女性だ。
ましてや、別世界からの訪問者だ。
出生も価値観も異なる以上、二人の時間を共有しつつ意識を擦り合わせるしかない。
「アゲハさんってサンドイッチよく食べてますよね? 好きなんですか?」
話題には事欠かない。出会って以降、一緒にいる時間は長いものの、質問でさえ途切れることはなかった。
食事という分類に絞ったとしても、会話はいくらでも可能だ。互いを知るためにも、少年は歩み寄るように問いかける。
「ふ、普通、かな。今はその、お腹減ってなくて……。疲れちゃった、から……」
「あぁ、帰り道、けっこうフラフラでしたよね。考えてみたら、三時間以上は歩きっぱなしになっちゃったか。アゲハさんって料理が得意って言ってましたけど、例えばカレーとかも作れちゃうんですか?」
「うん、時々、作ってたよ。レトルトの方が多かった、けど……」
アゲハにとっては身近な単語ながらも、エウィンは首を傾げてしまう。
「レトルト?」
「あ、その、お湯で暖めるだけで食べられる、カレーのこと」
「お湯で? え? なんか、その、すごいですね」
彼女の説明が言葉足らずだったため、少年はイメージすら掴めていない。
熱湯にカレーをそのまま流し込むという状況を想像するも、もちろん不正解だ。
残念ながら訂正されず、次の話題に移り行く。
「こっちの世界にも、カツ丼があるなんて……。食べ物だけは、本当にそっくり」
「日本にもあるなんて、すごい偶然ですよね。僕は料理出来ないので妄想になっちゃいますが、美味しい料理を考えると、行き着く先は同じなのかな?」
「収斂進化。確かに、そういうのあるのかも……。オムライス、スパゲティ、お寿司やハンバーグ。おにぎりには海苔を巻いてるし、具には海老が入ってたりするし……」
日本料理だけではない。外国の料理さえもイダンリネア王国は生み出している。
彼女の言う通り、料理人の創意工夫が同様のレシピを生み出すに至ったのか、それ以外の理由があるのか、こればかりは転生者のアゲハにもわからない。
「逆に日本にはない食べ物とかあったりするんですか? 例えば、草餅なんてこっちでしか食べられそうにないですけど」
「ううん、日本料理にあるよ。和菓子って言うの」
「え⁉ じゃ、じゃあ、ワカメスープとかは……。さすがに海藻なんか飲んだり食べたりしませんよね?」
「ある、かな。ワカメは日本人にとって、馴染みがある方……」
そして沈黙が訪れる。
実際には周囲の喧騒が騒がしいほどに響いているのだが、二人の口が停止したため、不思議な時間が流れ出す。
「偶然にしては似すぎてるような?」
「うん、そう、だよね……」
二人の言う通りだ。
魔法や戦技。
魔物。
文明の発展具合。
地形や人種。
違いを挙げればきりがないが、一方で似ている部分があまりに多すぎる。
その一つが料理であり、調理方法はおろか名前さえ完全に一致している。
不思議だ。エウィンでさえも驚きを隠せない。
同時に、少年はとある仮説を思い描く。
「もしかしたら、似てる世界だからこそ、アゲハさんの引っ越し先に選ばれたのかもしれませんね」
ロマンチックな予想だ。
しかし、アゲハを大きく頷かせる。
「そんな気が、する。うん、嬉しい」
(嬉しい? まぁ、うん、苦労せずに済むもんね)
楽しい考察はこれにて終了だ。
傭兵組合の制服を着たウェイトレスが、二人分のリンゴジュースとアゲハのサンドイッチを届けてくれた。少し遅れてカツ丼も運ばれてきたため、彼らはおしゃべりではなく食事のために口を動かす。
(カツ丼って美味しい。見た目よりはべっとりしてるけど、だからなのかな、味がすっごく濃厚。ちょっとだけ甘いけどしょっぱさみたいなのもあって、なにより肉と卵がサイコー。お米も出汁を吸ってて美味しい。なるほど、食べてる人をちょいちょい見かけるのはこういうわけか。あ、このお肉も魔物だから、アゲハさんの知ってる料理とはちょっとだけ違うのか。やっぱり、僕達は違う世界の人間なんだな)
地球には魔物がいない。エウィンにとっては、これこそが最大の驚きだ。
ウルフィエナ。神々が作り出した、地獄のような楽園。
そこに住まう生命は、決して人間だけではない。
動物。
昆虫。
魚。
そして、魔物。
箸でカツを持ち上げながら、少年は思いを馳せる。
(醤油と砂糖と、他にも色んな調味料を使ってるんだろうな。うん、とってもジューシー)
世界の謎より目の前のカツ丼だ。
十八歳の男の子ゆえ、食欲には抗えない。