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第8話 裏切りの共鳴
夜の配信は、いつもより静かに始まった。
画面が暗く沈む。
数字が浮かぶ。
十。
九。
八。
久世ミナトは、机の前で動けなかった。
綾瀬レイナが隣で記録を取っている。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
一。
ボスが現れた。
顔の見えない輪郭。
加工された声。
いつもの言葉。
「本日のK宣告を始めます」
ミナトは息を止めた。
「今回の対象者はこちらです」
画面に名前が出た。
佐倉ユウ
ミナトの手からペンが落ちた。
床に転がる音が、ひどく大きく聞こえた。
レイナが顔を上げる。
「ミナト」
ミナトは画面を見つめたまま、声を出せなかった。
ボスは静かに続ける。
「佐倉ユウさんに[K]を持たせます」
コメントが流れる。
誰
ミナトの友人?
ついに身内か
これはきつい
信じられるのか
ボスは、ほんの少し間を置いた。
「久世ミナトさん」
ミナトの指先が冷える。
「あなたは、近い人ほど信じられますか」
配信は切れた。
部屋に残ったのは、時計の音と、レイナの浅い息だけだった。
ミナトはすぐにスマホをつかんだ。
ユウに電話をかける。
一度目。
出ない。
二度目。
出ない。
三度目。
通話がつながった。
「……見た?」
ユウの声は低かった。
ミナトは立ち上がった。
「今どこ」
「家」
「行く」
「来なくていい」
「行く」
「ミナト」
ユウの声が、少しだけ鋭くなった。
「今の君が来ると、私の家までニュースになる」
ミナトは言葉に詰まった。
その通りだった。
自分が行く場所に、Kは集まる。
ボスに言われた言葉が、胸の内側で鳴った。
「でも、一人にできない」
「一人にしたくない、でしょ」
ミナトは黙った。
「私を助けたいのか、自分が見捨てなかった証拠を残したいのか、どっち?」
その言葉は、ミナトの中の柔らかい場所をまっすぐ刺した。
「ユウ」
「ごめん」
通話の向こうで、ユウが息を吐いた。
「怖いの。だから意地悪な言い方してる」
「分かってる」
「分かってないよ」
短い沈黙。
「今、来ないで。明日の朝、駅前の喫茶店で会おう」
「記録は取って」
「分かってる」
「外から届いたものは」
「分かってる」
「知らない連絡は」
「ミナト」
ユウの声が、低くなった。
「私は、君の依頼人じゃない」
ミナトは口を閉じた。
「友人だよ」
通話が切れた。
ミナトはスマホを握ったまま、しばらく立っていた。
レイナが静かに言った。
「座って」
「行く」
「だめ」
「でも」
「今行ったら、ユウさんの言った通りになる」
ミナトはレイナを見た。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
声が荒くなった。
自分でも驚いた。
レイナは眉を動かさなかった。
「寝る。記録する。朝行く」
「そんな冷静に」
「冷静じゃないよ」
レイナの声も少し低くなった。
「でも、ここで君が壊れたら、ユウさんはもっと疑われる」
ミナトは机に手をついた。
息が乱れる。
これまで、何人も助けてきた。
社長。
教師。
院長。
配達員。
俳優。
新人ユーチューバー。
そのたびに、冷静でいようとした。
確認しよう。
記録しよう。
距離を作ろう。
一人にしないようにしよう。
でも、ユウの名前が出た瞬間、それらが全部こぼれ落ちた。
守りたい。
今すぐ行きたい。
誰にも触れさせたくない。
その感情が、自分の中から出てきたことが怖かった。
朝。
駅前の喫茶店は、開店直後で人が少なかった。
ミナトは奥の席に座っていた。
レイナは少し離れた席で記録を取っている。
やがて、佐倉ユウが入ってきた。
柔らかい茶色の髪を首元で結び、ベージュのロングカーディガンを着ている。
いつもなら歩き方が軽い。
今日は違った。
入口から席までの短い距離を、何度も周囲を見ながら歩いてきた。
ユウは向かいに座った。
「おはよう」
「寝られた?」
「少し」
「嘘だ」
ユウは笑わなかった。
「君もでしょ」
ミナトは答えなかった。
店員が水を置く。
その水を、ユウは見つめた。
飲まない。
ミナトも飲まなかった。
二人の間に、触れられないものが置かれているようだった。
「今朝、近所の人に避けられた」
ユウが言った。
「一人は、私を見て道を変えた。もう一人は、挨拶してくれたけど、目が合わなかった」
「記録した?」
言ってすぐに、ミナトは後悔した。
ユウの目が細くなる。
「またそれ」
「ごめん」
「ううん。必要なのは分かってる」
ユウはスマホを出した。
「でも、記録って便利だね。つらいことまで、きちんと残る」
ミナトは言葉を探した。
「ユウ、僕は」
「ねえ」
ユウは、ミナトの言葉を遮った。
「君は、本当にボスを知らないのか?」
喫茶店の音が、遠くなった。
コーヒーを注ぐ音。
皿が触れる音。
外を走る車。
全部が薄くなった。
ミナトは、ユウを見た。
ユウの目は揺れていなかった。
怒っている。
怖がっている。
でも、それ以上に、確かめようとしていた。
「知らない」
そう言うだけでよかった。
なのに、声が出なかった。
ユウの表情が変わる。
「なんで、すぐ言わないの」
「違う」
「何が違うの」
「知らない。知らないんだ」
「じゃあ、なんで答えられなかったの」
ミナトの喉が詰まる。
答えは、自分でも分からなかった。
知らない。
本当に知らない。
ボスの顔も、居場所も、仕組みも。
けれど。
Kという言葉を最初に使った記憶。
自分の活動が現場を大きくしている違和感。
ボスの言葉が、自分の内側を知りすぎている感覚。
それらが、返事の前に積み重なった。
ユウは、ゆっくり言った。
「君がボスだって思ってるわけじゃない」
ミナトは顔を上げる。
「でも、ボスは君をよく知ってる」
「……」
「君が一番傷つく言葉を、ちゃんと選んでくる」
ミナトは拳を握った。
「それは、誰にでもできる。僕は配信も記録も残してる。過去の投稿も」
「本当にそれだけ?」
ユウの声は静かだった。
その静けさが、苦しかった。
「君は、Kを止めたいって言う。でも、Kが広がる場所には、いつも君がいる」
「それは助けるためで」
「分かってる」
ユウはうなずいた。
「分かってるから、怖いんだよ」
ミナトは目を伏せた。
「信じてほしい」
その言葉は、弱く出た。
ユウは長く息を吐いた。
「信じたい」
ミナトは顔を上げる。
「信じたいけど、怖い」
その瞬間、ミナトは初めて分かった。
これまで自分が聞いてきた言葉。
信じたい。
でも怖い。
それは、逃げの言葉ではなかった。
人が誰かを信じる手前で震える、本当の声だった。
ユウは水に手を伸ばした。
一度止まり、それから飲んだ。
「私は、君を疑ってる」
ミナトの胸が痛んだ。
「でも、君に助けてほしい」
「……うん」
「この二つ、同時にあっていい?」
ミナトは、ゆっくりうなずいた。
「いい」
「じゃあ、助けて」
ミナトは、今度こそすぐに答えた。
「助ける」
ユウの目に、少しだけ涙が浮かんだ。
でも、こぼれなかった。
昼までに、ユウへの噂は広がった。
久世ミナトの友人。
K宣告。
ボスとの関係を知っている可能性。
久世が答えられなかったらしい。
喫茶店で話した内容まで、なぜか断片的に流れていた。
レイナが調べると、店内にいた客の一人が投稿していた。
音声はない。
だが、ミナトが黙った瞬間の写真があった。
その一枚に、言葉が添えられていた。
問い詰められて沈黙。
ミナトは、その写真を見てスマホを机に置いた。
ユウは横から見て、軽く笑った。
「すごいね。一秒の黙りが、意味になる」
「ごめん」
「謝らないで」
ユウは画面を閉じた。
「私も聞いたんだから」
レイナが言った。
「次は、ユウさんの生活を守る形を作る」
「生活」
ユウは少し考えた。
「仕事は在宅でできる。外出は減らす。でも、全部閉じると余計に怪しまれる」
「会う人を絞りましょう」
ミナトは言った。
「家族、職場、近い友人。まず、その人たちに説明する」
ユウはミナトを見た。
「君も来る?」
「必要なら」
「来てほしい。でも、来てほしくない」
ミナトはうなずいた。
「じゃあ、僕は画面越しで参加する」
ユウは少しだけ目を細めた。
「そういうところ、前より上手くなったね」
「上手くなりたくなかった」
「だろうね」
午後、ユウは家族と通話した。
母親は泣いた。
弟は怒った。
職場の上司は、しばらく休むかと聞いた。
ユウは一つずつ答えた。
「怖いなら、怖いって言っていい」
「でも、私をいない人にしないで」
「必要な確認はする」
「仕事は続けたい」
画面越しに、ミナトは黙って見ていた。
助けたい。
代わりに話したい。
でも、今日はユウが自分で話す日だった。
夕方、ユウは疲れきった顔で画面を切った。
「しんどい」
「うん」
「でも、言えてよかった」
「うん」
「ミナト」
「何」
「私、まだ君を少し疑ってる」
ミナトは苦く笑った。
「うん」
「でも、今日一緒にいてくれてよかった」
「うん」
その二つが同時にある。
それが、信頼の本当の形なのかもしれなかった。
完全に信じる。
完全に疑う。
そのどちらかだけでは、人は人といられない。
疑いながら、離れない。
怖がりながら、話す。
それは、とても疲れる。
でも、Kに飲まれないためには、そこに立つしかない。
夜。
ボスの配信が始まった。
画面が暗く沈む。
数字が浮かぶ。
十。
九。
八。
ミナトは、ユウとレイナと同じ通話画面でそれを見ていた。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
一。
ボスが現れる。
「本日の観察結果」
加工された声が流れる。
「佐倉ユウさんは、友人を疑いました」
コメントが流れる。
当然
友人でも疑う
ミナト怪しい
ボス知ってるだろ
「久世ミナトさんは、答えられませんでした」
ミナトの胸が締めつけられる。
ユウが画面越しに言った。
「切らないで」
ミナトはうなずいた。
ボスは続ける。
「信頼とは、美しい言葉です」
一拍。
「ですが、その中にはいつも、疑いが混じっています」
レイナが小さく舌打ちした。
「人は、完全に信じるふりをします。完全に疑うふりもします」
ボスの声が、少し近くなる。
「けれど本当は、その間で揺れているだけです」
ミナトは画面を見つめた。
「久世ミナトさん」
また名前を呼ばれる。
「あなたは、友人に疑われても、まだ信用を語れますか」
配信は終わった。
通話画面に、三人の顔が残った。
ユウはしばらく黙っていた。
それから言った。
「語ってよ」
ミナトは顔を上げる。
「私が疑っても、君が語らないと困る」
レイナが腕を組んだ。
「そうだね」
ミナトは息を吐いた。
長く。
深く。
「信頼は、疑いがないことじゃない」
言葉が、ゆっくり出てきた。
「疑っても、相手を壊す前に話すこと」
ユウはうなずいた。
「うん」
「疑われても、相手を敵にしないこと」
レイナも静かに聞いている。
「たぶん、それしかない」
ユウは少し笑った。
「じゃあ、明日もそれでいこう」
「うん」
「私は君を疑う。でも、話す」
「僕は疑われる。でも、逃げない」
レイナが息を吐いた。
「面倒くさい友情」
ユウが笑った。
今度は少しだけ、いつもの笑いだった。
ミナトも、ほんの少し笑った。
その夜、自室に戻ったミナトは、ノートを開いた。
第8話。
友人。
感情。
疑い。
君は、本当にボスを知らないのか?
答えられなかった。
ペンが止まる。
しばらくして、もう一行書いた。
信じることは、疑いが消えることではない。
疑いを持ったまま、相手を壊さないことだ。
スマホにユウからメッセージが届いた。
明日、母に会う。
怖いけど行く。
続けて、もう一通。
君も、自分の過去から逃げないで。
ミナトは、その文を何度も読んだ。
机の引き出しを開ける。
古いノートがあった。
Kという言葉を最初に書いた頃の記録。
危険。
怖い。
正体が分からない。
それを、Kと呼ぼう。
ミナトは、そのページを見つめた。
胸の奥で、何かが共鳴する。
遠くから聞こえる音のように。
自分の声なのか。
ボスの声なのか。
もう、区別がつかなかった。
K宣告八日目。
友人の疑いは、裏切りではなかった。
それは、まだつながっていたいという最後の震えだった。
コメント
1件
うわ、めっちゃ重い…でもいい意味で刺さったわ。第8話、一気に読んだ。 「信じたいけど怖い」ってユウのセリフ、めちゃくちゃリアルで胸が締め付けられた。ミナトが答えられなかったあの沈黙、読んでるこっちまで息止まったよ。 「疑っても相手を壊す前に話す」っていう着地点、綺麗すぎず泥臭くて、逆に信頼の本質を突いてる気がする。次、どう動くんだろう。続きが気になる🔥