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#オフィスラブ
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昨夜の京介は、まるで私を自分の一部として縫い付けようとするかのように
激しく、そして執拗だった。
朝、重い瞼を開けて鏡の前に立つ。
そこに映る自分は、いつもの冷静な「氷室秘書」の面影を残しながらも
どこか毒気に当てられたような危うさを孕んでいた。
ハイネックのブラウスを選んでも
首筋に残された深く紅い痕が、襟の隙間から残酷なほど鮮やかに浮かび上がっている。
(……もう、自分にすら言い訳できない)
これが「契約」を遂行するための練習だなんて、今の私には到底信じられなくなっていた。
仕事中も、平穏な日常が砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
ふとした瞬間に、肌に吸い付くような彼の指の感触や
鼓膜を震わせたあの熱い声が脳裏に蘇り、タブレットを操作する手が止まってしまう。
有能であるはずの私が、彼という存在のせいで、自身の制御を失いかけていた。
「氷室秘書、次の役員会の修正資料だが。確認は済んでいるか」
CEOルーム
デスクに向かう京介の声は、いつも通りの、一点の隙もない冷徹な「上司」のものだ。
けれど、資料を受け取ろうと差し出した私の指先が
わずかに彼の掌に触れた瞬間、神経を焼き切るような微かな電流が走った。
彼は一瞬だけ視線を上げ、傍からは見えない角度で
私の左手薬指の付け根を───
指輪のあった場所を、親指で強く押し込んだ。
「……っ」
「集中しろ。仕事と私情の区別がつかないようでは、お前を俺の隣に置く意味がない」
突き放すような冷たい言葉。
けれど、その瞳の奥には
昨夜の狂おしい情熱を共有した者同士にしか分からない、共犯者の色が濃密に混じっていた。
境界線が、音もなく溶けていく。
仕事が完璧であればあるほど
夜の密やかさが甘く残酷に際立ち、私が「氷室志乃」という個人を失っていくような奇妙な感覚。
そんな中、社内の静寂を切り裂くように不穏な噂が広がり始めていた。
「青桐社長の結婚は、実は次期会長の座を得るための偽装ではないか」
出所こそ不明だが、その疑念は
京介の異母兄弟である副社長の派閥によって、毒のように着実に社内を侵食しつつあった。
「……志乃。今夜は少し、覚悟しておけ」
退社間際、誰もいないエレベーターホールですれ違いざまに、彼が低く呟いた。
その言葉は、甘い愛の囁きというよりは
これから始まる熾烈な「戦い」への宣戦布告のように聞こえた。
契約という名目の、私を守ってくれていた安全な場所は、もうどこにもない。
私は彼を支える唯一無二のパートナーとして
そして彼に狂おしく求められる一人の女として
吹き荒れる嵐の真ん中へ、その一歩を踏み入れようとしていた。