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「鍾馗《しょうき》!髭モジャは、戻ってきてるー!」
「うわっ、紗奈姉《さなねぇ》じゃなかった、上野様、どうされましたか」
北の対屋《ついや》の奥の奥。離れのように建つ、二つ続きの棟がある。
皆の衣装の生地を染め上げる工房、染め殿《どの》と呼ばれる、作業場だ。
その棟の脇に沿うように備わる小屋が、鍾馗一家の住まいだった。
入口の、引き戸を威勢よく開け、怒鳴り混む勢いの上野の一声に、板土間で、転がっていた髭モジャは、飛び起きた。
「な、なんじゃ、鍾馗!どこに、雷が、落ちたのじゃ!」
「とと様、寝ぼけてないで、上野様ですよ」
「ん??女童子《めどうじ》に、あれ、長良《ながら》殿、そして、どこぞの美丈夫までも。いかがした?」
言って、髭モジャは、眠そうに目をこすった。
「あー、たった今、女房殿の共で、吉野の染め殿から、戻ったばかりでのお」
言いながら、今度は、大あくび。
「お疲れの所、申し訳ない。髭モジャ殿、あの、琵琶法師が、また、現れましたぞ」
晴康《はるやす》が、まくし立てる。
「なにぃいーーー!!!」
髭モジャが、板土間から、転げ落ちる勢い、晴康の元へ、駆け寄った。
「まことか!美丈夫!」
「はい。そして、最悪、こちらの御屋敷に、今宵あたり現れます」
「だああーーー!!!一大事ーーーー!!!」
耳をつんざくような、髭モジャの叫びが轟いた。
「お黙んなさいっ!!お前様っ!!さわがしいでしょっっ!!」
上野達の、背後から、いきり立った女人《にょにん》の声がした。
「あっ!橘《たちばな》様!」
「上野様、どうされました?また、うちの、二人が、ご迷惑を?」
ううんと、上野は、首を振り、どこか、ほっとした仕草を見せる。
「あら、常春《つねはる》様まで!いったい、何が、あったのですか?この、橘、お役にたてましょうか?」
と、言う橘の顔は、いっきに歪んだ。
「上野様!まだ、乾き物を袖の中に入れる癖が抜けてないのですね!おかしな、匂いがしますよっ!!」
この橘、上野が、まだ、紗奈と呼ばれていた頃の、先輩格の女房で、今は、その腕を見込まれ、屋敷の住人達の衣装の生地を染める職人として、住み込んでいる。
そして、あれこれあって、知り合った、夫である、下男の髭モジャと共に一家で、工房脇に住を置き、染め物に、励んでいるのだった。
何しろ、屋敷の者達、つまり、守近一家の衣装は、当然のことながら、仕える女房、その他、詰める下男に、下女に、と、ありとあらゆる、住人達の衣装の生地を用意しているのだから、工房に、住んでいるのか、泊まり込んでいるのか。
時には、別館とも言える、吉野の地に置く、染め殿にまで足を運んでいる。
その、吉野から、うまい具合に、二人は、帰って来ていた。
「あ、それが、橘様!」
「なんと!その様なことが!しかし、上野様、乾き物は、袖に入れられていたのですね?いけません、いけませんよ!」
軽く経緯を、話したが、やはり、元は、中堅女房。所作には、煩く、上野は、チクリと、無作法に釘を刺された。
続き、橘は、夫、髭モジャに向かい、
「お前様!!何やら、一大事のようですぞ!!お手伝いなされませっ!!」
と、発破をかける。
今は、下男であるが、髭モジャ、元は、検非違使《けびいし》それも、下手人を捕らえる役目、看督長《かどのおさ》に、ついていた。まさに、うってつけの人材なのだ。
「おお!もちろんじゃ!御屋敷の危機だからのぉ!!」
「よろしい!その勢ですっ!!」
二人の威勢に押され、上野達は立ちすくむ。
それを見て、
「いや、うちの、とと様もかか様も、騒がしゅうて……申し訳ござりません」
と、鍾馗が、頭を下げた。