テラーノベル
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その夜、私は、一睡もしなかった。
千鶴様も、そうでございました。
扉の向こうの声が、耳の奥で、何度も繰り返し鳴った。
あの人は、私が何を知っているか、もう知っている。刑事が書斎の引き出しから並べた紙と、赤い封蝋の欠片を、戸口から全部見ていたのだから。
ここに、じっとしていてはいけない。
夜が明けて、真柴さんがいつものように膳を運んできたとき、私は、いつものように、旦那様の言いつけですので、と言った。
声が、ちゃんと出たことに、自分で驚いた。
*
次の晩、真夜中を過ぎた頃だった。
渡り廊下の扉の向こうで、かちり、かちり、と、小さな金物の音がした。
私は、扉に耳をつけた。
「奥様。篠原です」
囁き声だった。
「錠前は、和館の側の南京錠です。少し、お待ちください」
金物の音が、しばらく続いた。やがて、がちゃり、と重い音がして、扉が細く開いた。
寝間着に羽織を引っかけた百合絵様が、手燭を持って立っていた。その後ろで、篠原さんが、曲げた針金を二本、袂にしまっていた。
「国の親父が、鍛冶屋なんです。錠前の修繕も請け負っていて。子どもの頃から、手伝わされていました」
篠原さんは、丸眼鏡を押し上げて、申し訳なさそうに笑った。
「法科の学生が、することではありませんが」
「お母様のところへ行くわ」
百合絵様が、私の手を引いた。
「真柴は、家令室の奥の部屋で寝てる。さっき、明かりが消えたの」
大奥様の居室には、行灯がひとつ、ともっていた。
大奥様は、白い寝間着の上に、鉄紺の羽織を肩から掛けて、布団の上に起き上がっていた。
眠っていなかったのだ。
細い顔が、行灯の灯りの中で、いっそう白く見えた。三日のあいだに、頬がこけていた。
「……来ると、思っていました」
大奥様は、百合絵様に、襖の外を見張るように言った。
それから、私を、枕元へ招いた。
「お座りなさい」
私は、膝を揃えて座った。
何から話せばいいのか、わからなかった。大奥様が、先に口を開いた。
「宗介は、亡き旦那様の子です」
行灯の芯が、じ、と鳴った。
「新橋の、ふさという芸妓に産ませた子。旦那様が、まだお若い頃のことです。旦那様は、認めませんでした。認めれば、家の醜聞になる」
大奥様は、膝の上で、白い指を組んだ。
「私が嫁いで三年目、宗介が二十歳のとき、母親に連れられて、この家の勝手口に来ました。旦那様は、会おうともなさらなかった。……私が、書生として置くことにしたのです。外へ放り出せば、いつか、どこかで口を開く。手元に置いておけば、黙らせておける。そう考えました」
「宗介さんは、御自分が、先代様の子だと」
「知っています。母親が、教えたのでしょう。それでも、あの者は、三十年、一度も、それを口にしませんでした。この家の誰よりも、よく仕えました」
大奥様は、目を閉じた。
「だから、私は、あの者を見ないようにしてきた。見れば、旦那様の顔が、そこにあるから」
大広間の、肖像画。
百合絵様が言っていた。お母様は、この絵を、一度も見上げない、と。
「母親は、浅草におります」
大奥様は、文机の引き出しを開けて、古い紙片を一枚、私に差し出した。細い女文字の、所番地だった。
「盆と暮れに、タキに届けさせてきました。わずかな金ですが。……タキだけが、知っています」
私は、紙片を、帯にしまった。
それから、大奥様は、まっすぐに私を見た。
「志摩のお嬢さん」
言いかけて、大奥様は、一度、口を閉じた。
「……いいえ。あなたは、もう、久遠寺の嫁でしたね」
大奥様は、羽織の前を、きっちりと合わせた。
「明日の朝、私が起きます。あの者を、大広間に呼びます。嫁を閉じこめておくなど、この家の大奥様が、許した覚えはありません」
*
翌朝、大奥様は、本当に起きた。
鈍色の無地に、黒い帯。丸髷を小さく結い直し、白檀の扇子を手に、大広間の上座に座った。
呼ばれた真柴さんは、下座に手をついた。
「嫁は、今日から、私の居間の隣に置きます。洋館の鍵を、ここへ」
「……大奥様。御身の安全のためでございますが」
「この家で、嫁の身を守るのは、姑の役目です。家令の役目ではありません」
扇子が、ぱちり、と鳴った。
真柴さんは、しばらく、畳の目を見ていた。
それから、懐から鍵を出し、両手で畳の上に置いた。
「かしこまりました、大奥様」
頭を下げたまま、真柴さんの左手が、眉のほうへ上がりかけて、止まった。
大広間の床の間の脇で、先代様の肖像画が、同じ手つきのまま、それを見下ろしていた。
その日の午後、私は、本所の父の見舞いに、と言って屋敷を出た。
百合絵様と、篠原さんが、一緒だった。
*
紙片の所番地は、浅草の、六区の喧騒から少し外れた路地の奥だった。
活動写真館の弁士の声が、まだかすかに聞こえる。軒の低い長屋が、どぶ板を挟んで向かい合っていた。
いちばん奥の戸口に、朝顔の鉢が一つ、置いてあった。
声をかけると、中から、細い声が応えた。
六畳ひと間に、布団が敷いてあった。
その上に、小柄な老婆が、座っていた。白髪をきちんと結い上げ、洗い晒しの浴衣の衿を、ぴしりと合わせている。病で痩せた体の、背筋だけが、まっすぐだった。
壁に、袋に入った三味線が一棹、立てかけてあった。
「久遠寺の、若奥様でございますね」
老婆の目が、私の右手の中指の、インクの染みの上で止まった。それから、そう言った。
「宗介から、聞いております。三人目の奥様は、紙を見る目の確かな、賢い方だと」
ふささんは、私たちに、欠けた湯呑みで白湯を出してくれた。
それから、枕元の古い文庫の蓋を開けた。
中から、黄ばんだ紙を一枚、そっと取り出した。
「これが、あたしの宝物でございます」
細い罫に囲まれた、和紙の書付だった。
上端に、紋がある。
細い輪の中に、丸い葉が、四枚。
私の帯の中にある罫紙と、同じ、古い紋だった。
「ふさ殿 生まれし子の名は 宗介と致すべく候」
墨の字の終わりに、署名があった。
宗隆。
「隆」の字の、旁の最後の横画が、右へ長く長く引かれて、終わりでわずかに跳ね上がっていた。日下部先生の事務所で見た、あの名と同じ癖だった。
「明治九年の、春でございます。旦那様が、名をくださった。それきり、一度も、認めてはいただけませんでしたけれど」
ふささんは、紙を胸に当てた。
「五年ほど前に、宗介が、一度だけ、これを貸してくれと申しまして。ひと月ほどで、きちんと返しに来ましたよ。あの子は、昔から、物を大事にする子でしたから」
五年前。
大正七年の、春だった。
父は言った。注文主は、明治の頃の古い書付を一枚、見本に持ってきた。紋の形だけ写させて、すぐに懐へしまった、と。
「それに、ね」
ふささんの顔が、ふいに、少女のようにほころんだ。
「この春から、宗介が、来るたびに申すんでございますよ。母さん、もうすぐだ。もうすぐ、父上の御名で、認めてもらえる、って」
皺の多い手が、紙を撫でた。
「あの子は、小さい時分から、手習いの好きな子でしてね。この書付を手本にして、旦那様の御名を、毎晩、真似して書いておりました。いつか、お父っつぁんに褒めてもらうんだ、って」
ふささんは、目を細めた。
「あの子の名を、ちゃんと、旦那様の子として、お墓に刻んでもらえる。あたしは、それだけを、四十七年、待ってきたんでございます」
百合絵様が、私の隣で、膝の上の手を握りしめていた。
篠原さんは、戸口で、うつむいていた。
ふささんは、紙を文庫に戻すと、私の手を取った。
骨ばった、冷たい手だった。三味線を弾いてきた指の先が、固かった。
「若奥様」
濁りかけた目が、私の顔を、まっすぐに覗きこんだ。
「あの子は、何か、悪いことをしているのでしょうか」
私は、答えられなかった。
握られた手を、引くこともできなかった。
コメント
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**第66話「浅草の老女」** もう、めちゃくちゃ泣きそうになりながら読んだわ……。 大奥様がついに動いた。あの「嫁を閉じこめておくなど、許した覚えはありません」は声に出して拍手したよ。鍵を取り上げる場面、扇子の音の効果がすごく効いてた。 そして浅草のふささん。三味線の棹が立てかけてある六畳ひと間で、背筋だけはまっすぐな老婆。四十七年待った「旦那様の御名で認めてもらえる」の一言が刺さりすぎる。あの「悪いことをしているのでしょうか」で、何も言えなくなる主人公の気持ちが痛いほどわかる。 宗介の幼い頃のエピソードも、書付を手本に父の名を書き写してたっていうのも、泣ける……。この老女の願いと、現実の宗介の行動が、もうどうすれ違ってるんだろうって苦しい。 大正ロマンの静かな筆致で、ここまで深い人間ドラマを描けるの、本当にすごい。次回も待ちきれない🔥
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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