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天利「……毒されて、後悔しても知らないよ……シズちゃん」
彼女は一瞬、弾かれたように肩を震わせた。
「お嬢さん」という檻を壊され、1人の女としてその名を呼ばれた衝撃。
彼女の瞳に溜まっていた涙が、一粒、俺の甲にこぼれ落ちる。
シズカ「……後悔なんて、とうに捨ててきましたわ」
彼女は俺の指にさらに深く自分の指を絡め、縋るような、あるいは逃がさないような強さで握りしめた。
シズカ「天利さんが毒なら、私はその毒に冒される最初の、そして最後の女になりたい。
……天利さん。 私を、そちら側の世界へ連れて行って。
……いいえ、私と一緒に、地獄を歩いてくださる?」
俺は答えの代わりに、繋いでいない方の手で、彼女の髪をそっと掬い上げた。
今までなら、その「清潔さ」に気圧されて触れることすら躊躇ったはずだ。
だが、今の彼女からは、あの優子の冷徹な教えも、父親の「醤油の焦げた匂い」も、すべてを飲み込んで自分のものにした女の熱が立ち昇っている。
天利「……まいったな。
本当に、君は……」
俺は、自分の「なまっ白い指」が彼女の頬を撫でるのを見つめた。
これまで数多の「不始末」を片付けてきたこの汚れた手が、今、人生で初めて「守りたいもの」に触れている。
天利「……怖くないの?
俺が君の知らないところで、君の周りを探っていたんじゃないかって」
彼女は俺の少し冷たい指先を見つめ、それからゆっくりと首を振った。
シズカ「いいえ。
……もし、天利さんが私のすべてを調べていたとしても、私は構いません。
だって、そうまでして私を引き止めようとしてくれたのなら、それは……私にとっての『救い』ですもの」
俺は、彼女のあまりにも純粋で、狂気すら孕んだ信頼に、心の底から敗北を認めた。
この娘は、毒だと分かっていて飲むのではない。
毒であることを愛しているのだ。
シズカ「あるいは私の知らないところで誰かと繋がっていたとしても、
……今、こうして私を『シズちゃん』と呼んでくれた、その声に嘘がないなら、
私は、それだけでいい」
天利「……本当に、君には敵わないな」
俺は自嘲気味に笑い、自分の指を彼女の指に絡め直した。
新界から聞いた「姉貴の部下を食いやがった」という怒声が、遠くで響いた気がした。
だが、目の前の彼女の瞳に宿る熱は、そんな身内の揉め事すら矮小なものに思わせるほどに純粋だった。
天利「……そうだね、君の上司が何を言おうと、俺には関係ない。
君が今、俺の腕の中にいる。
それだけが、俺の知っている唯一の真実だよ。
……お嬢さん、なんて呼ぶのは、もうおしまいだ」
俺は彼女の顎を優しくクイと持ち上げると、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
天利「上司の言う通り、俺を恨んだ方がいい。
……今夜のことは、一生、君の履歴書には書けない汚れになる」
シズカ「……ふふ、望むところですわ。
私は、この世に産み落とされた時から汚れを背負っているんですもの……」
シズカはそう言って、あの「ニカッ」とした不敵な笑顔を見せた。
その笑顔に、俺はついに抗うのをやめ、吸い寄せられるように顔を寄せ、2人の唇が触れ合う……その、数ミリ手前だった。
コン、と乾いた、心地よい木の音がカウンターに響いた。
バーテンダー「……チェイサーのお代わりを置いておきますよ」
老練なバーテンダーが、まるで何も見ていないかのような涼しい顔で、新しいグラスを2人の前に滑らせた。
天利は弾かれたように動きを止め、苦笑混じりの溜息をついて指を離した。
一方のシズカは、真っ赤になって視線を泳がせている。
バーテンダー「……当店は『止まり木』でございます。
羽を休めるのは結構ですが、巣作りはまた別の場所でお願いしたいものですな」
天利「……厳しいね。
相変わらず」
俺は気恥ずかしさを隠すように、新しく出された水を一口含んだ。
喉の渇きと一緒に、先ほどまでの熱がゆっくりと、けれど確かな重みを持って胃の奥に落ちていく。
天利「……行こうか、シズちゃん。
これ以上ここにいると、マスターに箒で掃き出されそうだ」
シズカ「……はい。
……マスター、ごちそうさまでした」
彼女は恥ずかしさに俯きながらも、俺に促されて席を立つ。
俺達が店を出る間際、バーテンダーは1度だけ彼女の背中を見て、それから俺に静かに告げた。
バーテンダー「……その方を、光の届かない場所へ置き去りにしないよう」
俺はその言葉に背中で答え、彼女の肩を抱いて夜の街へと踏み出した。
背後で重厚な扉が閉まり、カチリと鍵がかかる音がした。
夜の空気は冷たい。けれど、触れ合う肩越しに伝わる熱は、先ほどよりもずっと深く、濃くなっていた。
─── ───
バーを出ると、夜の街の湿った風が俺達の頬を撫でた。
小柄な体を少し高めのヒールで補っているが、それでも俺の隣では、まるで子供が背伸びをしているような体格差だ。
俺は、自分の大きな掌の中に、赤ん坊のように小さく、それでいてバレエで鍛えられた芯の強さを感じさせる彼女の手を包み込んだ。
天利「……ホテルに泊まろう。
俺は家を持たない主義なんだ。
いくつか、組で預かっている部屋がある」
シズカ「……はい」
タクシーを呼び、連れてきたのは、繁華街の喧騒から少し離れた場所にある、古びた、けれど格式だけは残っているビジネスホテルだった。
表向きは平凡な宿だが、最上階の数部屋だけは、俺のような人間が身を隠すためのセーフハウスとして機能している。
部屋は、知らない人間が見たら驚くほど生活感がない。
あるのは最低限の家具と、俺が持ち歩いている予備のタバコ。
若い頃からあまり私物を持たず、趣味も持たずに生きてきた男の、殺風景な「巣」だった。
シズカ「……本当に、何もないお部屋なのね」
彼女は、長年続けてきた茶道の所作そのままに、音もなく、優雅に部屋の真ん中へ立った。
仕事用のオフィスカジュアルに身を包み、ナチュラルなアイメイクでつり目の鋭さを和らげているが、その背筋の伸び方は、この殺風景な部屋には不釣り合いなほど気品に満ちている。
俺はジャケットを脱ぎ捨てると、タバコを1本引き抜く。
天利「……退屈な部屋だろう?
君のようなお嬢さんが来る場所じゃないんだ」
シズカ「いいえ。
……天利さんの匂いしかしない。
それが、とても嬉しいわ」
彼女はヒールを脱ぎ捨て、裸足で俺の元へ歩み寄った。
靴を脱げば、体格差はさらに顕著になる。
俺の肩の位置に、彼女の頭がある。
俺が少し視線を落とせば、そこには白磁のように透き通った彼女のうなじが見えた。
俺は吸いかけのタバコを灰皿に置くと、その体を折り曲げるようにして、彼女を抱き上げた。
シズカ「あ……っ」
あまりの軽さと腕力のなさに、自分でも驚くほど簡単に宙に浮く。
俺の骨ばった指が、彼女の小さな、子供のような手を包み込む。
バレエで鍛えた柔軟な体は、俺の大きな腕の中で、驚くほどしっくりと収まった。
天利「……握力も、腕力も、まるでない。
……君は、本当に俺がいなきゃ、明日には消えてしまいそうだ」
シズカ「……ええ。
だから、離さないで。
……天利さん」
俺は、彼女をベッドの端に座らせると、自分は床に膝をつき、彼女の目線に合わせた。
天利「……シズちゃん。
俺は、君を愛することで、君のすべてを汚すことになる」
シズカ「汚れるのは、嫌いじゃありませんわ。
……だって、天利さんの色に染まるっていうことでしょう?」
彼女は、小さな手で俺の頬を包み込んだ。
俺達の間に、もう言葉は必要なかった。
俺は彼女の鋭そうな、けれど今は潤んで揺れている瞳を見つめ、ゆっくりと、その華奢な肩を引き寄せた。
窓の外では、街の灯りが遠ざかっていく。
この部屋だけが、世の中のルールからも、家系の呪いからも切り離された、2人のための地獄だった。