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スタジオに差し込むライティングの熱は
じんわりと、だが確実に
俺の首筋に汗を滲ませていた。
この灼熱の中で、いつも通り、レンズを覗き込む手に全神経を集中しているつもりだった。
だが、その集中は、一瞬にして打ち破られる。
「お、白鳥さん今日もいい感じっすね」
不意に、隣から向けられた声
若手モデルのひとり、狭山が、能天気な笑顔で俺に話しかけてきた。
歳の離れた年下のくせに妙に馴れ馴れしいタイプだ。
だが、どこか憎めない
人を惹きつける愛嬌があることは認めざるを得ない。
「あ、ありがと。モデルの表情がいいから助かってるよ」
反射的に、ごく自然に社交辞令めいた笑みを返した。
それだけの、何の変哲もない会話だったはずなのに——
ふと、背中に刺さるような視線を感じ、俺はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、テオだった。
彼の立ち位置も、ポージングも
カメラマンとしての俺が見る限り、完璧なはずだった。
被写体として非の打ちどころがない。
にもかかわらず、彼はカメラにも、煌々と輝く照明にも目を向けていなかった。
その視線は、一点に収束し
まっすぐに、俺を睨みつけていた気がした。
空気が、ぴしりと凍ったような気がした。
スタジオの熱気とは全く異なる
冷え切った空気が肺腑に流れ込み、思わず息をのむ。
……分かっていた。
あれは、仕事中に見せる彼の顔ではない。
いつもの、プロとして完璧なテオの顔ではない。
テオの視線には、明確な「棘」が宿っていた。
まるで「撮影に集中しろ」とでも言いたげに
しかし一切の言葉を発することなく
無言の圧力を全身から放っている。
周囲には気づかれないほどに絶妙に張りつめた空気。
その不可視の緊張感が、かえって俺の背筋に冷たいものを這わせた。
まるで、氷の蛇が脊椎を這い上がるような感覚だった。
その後も、何事もなかったかのように普段通りを装ってカメラを構え続けた。
だが、一度意識してしまったテオの視線が
どこか脳裏にこびりついて離れない。
それでも何とかひととおりのカットを撮り終え
ようやく一息ついた、その時だった。
「なんか上の空っていうか……ちょっと息抜きしてきた方が良いですよ」
編集部の人間に声をかけられ、俺の肩がびくりと上下した。
情けないほどの反応だ。
「……あ、はい。すみません」
そう答えるしかなかった。当然の指摘だ。
薬は飲んでいるとはいえ、今は発情期の真っ只中。
撮影の現場では、俺がオメガであることを知っているテオ以外には決して気づかれてはならない
と、常に気を張り詰めていた。
その緊張感が、たしかに少し
いや、かなり俺を疲弊させていた。
今日はこの後、もう何も仕事が入っていなかったはずだ。
そう考えると、どっと疲れが押し寄せてくる。
とりあえず編集部を出て、スタジオの玄関へと重い足を引きずって歩を進めた。
そんな発情期も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
ヒート7日目、時刻は午後7時過ぎ
今日のテオは、ブランドのパーティーがあるとかで
ザ・オークラ東京のクラブフロアのラウンジに向かっているとマネージャーから聞いていた。
煌びやかな場所で、彼はまたその圧倒的な存在感を放っているのだろう。
一方、俺はというと、今日は撮影もなく内勤だけだったため
事務所にて機材のメンテナンスを粛々とこなしていた。
そして中央の机の上には
使い古されたレンズクリーニング用の布と、まだ見ぬ写真集の企画書が広げられていた。
それからさらに1時間ほどが経過したころ
ようやく一区切りつき、俺は自販機で購入した温かい缶コーヒーを一口
ふうっと深いため息と共に飲み込んだ。
苦みが喉を通り過ぎる感覚は、疲れた身体にじんわりと染み渡るようだった。
発情期がやっと今日で終わるだろうと思うと
張り詰めていた神経がゆるりと解放されるような安心感が胸に広がる。
(やっと帰れる……今日は飯いらないってことだったけど、掃除ぐらいはしといた方がいいよな)
(結構、埃溜まってるところとかあったし!)
そう、ふと脳裏に浮かんだ。
テオの部屋の、あの隅っこに積もった埃を思い浮かべ
小さく奮起する。
どうせ帰ってもやることがないのだから、と。
すれ違う編集部の人間やスタッフに、疲労を悟られぬよう努めて挨拶を返し
事務所を後にしようとした、その時だった。
「白鳥さん、ちょっといいすか?」
不意に、背後からかけられた声に
俺の肩がびくりと反応した。
「あ、狭山くん……!お疲れ様です」
声の主は、最近よく話しかけてくるようになった
「オメガが抱かれたい男No.2」と名高く
あのトップのテオと肩を並べるほどの
うちの会社の人気モデル・狭山だった。
年齢は俺よりも少し下で、まだ大学を出たばかりということもあってか
現場経験は浅いものの
その素直さと人懐っこい愛嬌で、ファンにも編集部にも可愛がられていることは知っていた。
人の好きそうな、どこか幼さの残る顔をしている。
「突然すみません!あの、ちょっと折り入って相談したいことがあるんですけど……」
彼の声には、僅かながら切羽詰まったような響きがあった。
「相談?マネージャーは?」
「あー、言いそびれちゃったんで、白鳥さんさえ良ければ聞いて欲しいんすよ!」
「うん?そうですか、それぐらいならいいですけど…」
俺は訝しげに眉を上げた。一体何だろうか。
「ありがとうございます…!実を言うと、俺今結婚を前提に付き合ってる人がいて」
「そうだったんですか!おめでたいですね」
思わぬ話に、俺は素直に驚いた。
今までそんな素振りを見せたことはなかった。
「はい、付き合って3年ちょいっす」
「え、普通に続いてるのいいですね。そのうち同棲とかも考えてる感じですか?」
「はい!それで……その、正しく今同棲とかしたいなって思ってるんすけど……やっぱりまだ早いっすかね?」
真剣な表情で俺の意見を求める狭山に
俺は少し考える。
自身の経験を鑑みれば、早すぎるということもないだろう。
「俺は前の彼女とは付き合って3年ぐらいには同棲してたかな……個人差もあるし、相手の人がなんて言ってるかにもよるんじゃないですか?」
「なるほどなるほど!っていうか白鳥さん今は彼女いないんすか?」
彼の言葉に、俺は一瞬言葉を詰まらせた。
この手の話は、あまりしたくなかった。
「今はいないです」
「え!意外っす!だって白鳥さんめっちゃモテそうだし」
屈託のない言葉に、俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「いやいやそんなことないですって……つい先週ぐらいに4年も付き合ってた彼女に振られちゃいましたし」
俺が自嘲気味にそう返すと、狭山はまるで芝居でも見ているかのように
突然俺の腕に飛びついてきた。
「えっ!4年も?!絶対辛いじゃないですか!俺で良かったらお話聞きますよ……?」
彼の大きな瞳が、心配そうに俺を見上げる。
「大丈夫大丈夫!もう立ち直ってるし」
俺は努めて明るくそう言った。
だが、狭山の目がキラリと光った気がしたのは気のせいだろうか。
「もう、遠慮しないでくださいよ~あんまし関わったことない奴にこそ話しやすいことってありません?」
彼の言葉には、妙な説得力があった。
確かに、親しい友人に話すには少し荷が重すぎる内容だった。
「……一理、ありますね」
「じゃあ呼び止めてしまったお詫びも兼ねてなんすけど……白鳥さんってこの後予定あるんすか?」
「ないですよ」
「本当っすか?じゃ、休憩室でも行って、お話聞かせてください!あと敬語も堅苦しいんで、崩してくれていいっすよ!」
「そう……?ありがとう、狭山くん」
こんなに優しく、心配してくれる後輩の好意を無碍にしたくはなかった。
それに正直なところ、四年間も連れ添ってきた彼女に浮気されていた
などという情けない話は、身内にすら言いづらいことだった。
誰かに話して、少しでも胸のつかえを下ろしたい
という気持ちが全くなかったわけではない。
さっきまで、テオの部屋の掃除を徹底的にやるぞと意気込んでいた。
だが、狭山との話も、そんなに遅くはならないだろう。
それに、テオだって別に掃除を頼んでいるわけではない。
俺が勝手にしていることだし、気にもしないだろう。
この子は、快く聞いてくれると言うのだから。
なんて、後から振り返れば言い訳に過ぎない理由が
その時の俺の頭の中には、いくらでも思いついてしまった。
「うん、行こっか」
俺は狭山の誘いを、何の疑いも抱かずに快諾した。
「うぃー、乾杯っ!」
狭山は冷蔵庫から取り出したコーラとオレンジジュースを
それぞれグラスに注ぎ、俺に差し出してくれた。
彼の手つきは、まるで長年の友人とでもいるかのように自然だった。
俺はコーラを受け取り、二人は休憩室のソファに腰掛けた。
狭山はグラスに口をつけ、ごくごくと音を立ててオレンジジュースを一気に飲み干した。
俺もそれに倣い、自分のコーラを一口ちびちびと飲み始めた。
どこか、気の抜けたような空間が流れる。
それから、およそ2分ほどが経った頃だろうか。
突然、身体が火照るように熱くなった。
それは内側から湧き上がるような
じりじりとした熱さで、次第に呼吸も荒くなってきていた。
胸の奥で、心臓が普段よりも速いリズムで
ドクンドクンと激しく音を立てているのがわかる。
嫌な予感がする。
身体に、何かが起きている。
「はぁ……さ、狭山……くん?これっ……なんか……へんっ……」
声が、震えた。
喉が、締め付けられるような感覚に襲われる。
「大丈夫ですか?白鳥さん、息荒いっすよ?」
狭山の声が、どこか遠くで聞こえる。
「え?……あ、ごめん。何だろ……なんか急に身体が熱くなってきて……」
俺は、自分の体調の急変に、困惑するばかりだった。
「ねえ先輩知ってます?」
狭山が、唐突に言葉を投げかけてきた。
そして、何の躊躇いもなく俺の肩に触れると
その手はゆっくりと、まるで獲物を品定めするかのように俺の首元へと滑り込んできた。
ぞわりと、肌に粟立つような感覚が走る。
「な、なにが……?」
俺の声は、情けないほどに上ずっていた。
「最近、発情誘発剤を混入させた飲み物をオメガに飲ませてメイルレイプするαが続出してるって事件」
その言葉が、俺の脳内に冷たい氷の刃のように突き刺さった。
「は……?」
俺は思わず言葉を失う。
目の前の現実に、脳が追いつかない。
「俺も今先輩に同じことしようとしてんすよ?」
狭山の顔には、嘲笑にも似た薄笑いが浮かんでいた。
「ど、どういう、こと」
俺の疑問は、ただの呻きにしかならなかった。
身体の熱は増し、思考がまとまらない。
「先輩って~、オメガなんすよねぇ?」
狭山は、俺の耳元に口を寄せ
吐息がかかるほどの距離で囁いた。
その声は、甘ったるく、しかし底知れぬ悪意を宿していた。
「先輩のヒートが来てるの、なんとなくわかりますよぉ?」
ゾクゾクッと、背筋に冷たい鳥肌が立った。
全身の毛穴が開き、何とも言えない悪寒が走る。
「なっ……なんのこと……」
必死に平静を保とうと、言葉を紡ぎ出す。
だが、声は震えて
まるでうまく喋ることができない。
「しらばっくれても無駄っすよ、だって白鳥さんのフェロモンむちゃくちゃ濃いっすもん!」
狭山は、俺の項に鼻を押し当て
深く匂いを嗅いでくる。
その行為はあまりにも屈辱的で、俺の理性は限界に達した。
「や、やめろっ!!!」
反射的に、叫んでしまう。
だが、狭山は全く動じることなく
むしろ興奮したような、爛々と輝く目で俺を見つめてきた。
その瞳の奥には、濁った欲望が渦巻いている。
「いい顔しますねぇ……真面目な顔してエロい匂いぷんぷんさせちゃって」
狭山の指が、俺の顎を掴み
無理やり顔を上げさせる。
「このこと、社長にバレたら白鳥さん即クビっすよね?」
彼の瞳孔は、俺のフェロモンに当てられたのか
あるいは純粋な興奮からか、大きく開いているように見えた。
その視線に、俺の身体は恐怖で硬直する。
「はぁ……はぁ……頼む、から……っ、それだけは、やめてくれ……」
俺は、荒い息を吐きながら、懇願した。
喉はひりつき、声は掠れる。
これだけは、絶対に避けなければならない。
「黙っててあげてもいいっすけど、項噛ませてくれたらいいっすよ……って、ありゃ、この噛み跡……もう番いるんですか?」
狭山の指が、俺の首筋に残された
番がいることを示す噛み跡をなぞる。
彼の声のトーンが、僅かに変化したように感じた。
「……っ、テオだ」
俺は、藁にもすがる思いで、その名を口にした。
「俺はテオの、番……なん、だ。もう、番がいる……っ、だから他を……」
そう言えば、流石に引き下がってくれると思った。
番がいる相手に手を出せば、どんなαでも問題になる。
しかし、狭山は、さらに目をギラつかせて
悪魔のような笑みを浮かべた。
「なら好都合っすわ。」
彼は、俺の手首を強く握りしめる。
その指が、皮膚に食い込むほどだった。
「あの絶対王者のテオさんの大切なオメガが他の男に寝取られたなんて知ったらだいぶ屈辱だと思いますしね?」
彼の言葉が理解できず、俺は呆然とした。
しかし考える間もなく
「んぐっ……!?」
彼が、そのまま俺の唇に自分のそれを重ねてきた。
突然のことに、俺の喉から声にならない音が漏れる。
無理やり押し付けられた唇は、熱く、そして粘りつくようだった。
「はぁ……白鳥さんかわいすぎ……たまんねっすわ」
彼は、俺の口唇をこじ開けるようにして
舌を差し入れてきた。
無理やり絡め取ってくるその舌の動きに、俺は初めて味わう
未知の感覚に襲われる。
それは、快感と呼ぶにはあまりにも異質で
強烈な不快感と混ざり合っていた。
頭が、クラクラしてくる。
まるで、身体から力が抜けていくようだ。
俺は何とか逃れようと身体を捩るが
一切力が入らないどころか、得体の知れない快感が波のように押し寄せてくる。
「んん……っ…!」
狭山の舌が、俺の口内を蹂躙する。
彼の唾液と俺の唾液が混ざり合い、生々しい音が休憩室に響き渡る。