つまらなさそうに、顔をしかめきる実《みのる》がいた。
「ったく、あんたらのせいで、お前たちも、二人で出かけろなんて言われてねぇ」
嫌みたらしく言う、実《みのる》の後ろには、真紅の振り袖を着た佐紀子が佇んでいる。
「芝居見物の帰り。まったく、バカみたいに、派手な着物で飾り立ててる女と一緒にいるこっちの身にもなれって、話だよっ」
いらつく実《みのる》の口振りに、岩崎は、眉をひそめた。
「神田なら、取引先の知り合いとも会わないだろうと思っていたのに、あんた、神田に住んでたのかよ」
チッと、舌打ちする実《みのる》の後ろで、佐紀子は、悔しそうに俯いている。
月子達と出会ったから、というよりも、じっと何かに堪えているような感じがした。
この殺伐とした雰囲気から、逃れようとしてるのだろう。岩崎は、実《みのる》の挑発的な言葉に反応する訳でもなく、淡々としている。
「……役目は終わったからな。気分がすっきりしないわっ。知り合いの所へ行ってみるか。帰りは、何時になるか、知らねぇよ」
実《みのる》は、岩崎を気にすることなく、佐紀子へ冷たくあたると、さっと、その場から離れた。
「……早く、西条家に慣れた方が良いと、今日から、実《みのる》様は、うちに来られるのです」
岩崎に、深入りされたくないのか、佐紀子が、ポツリと事情らしきことを言う。
「なるほど。そうですか」
では、と、岩崎も関わりを避けるべく、自転車を押しかけるが、はたと、佐紀子の姿を見た。
「佐紀子さん、人力車を拾いましょう。御屋敷へお戻りなのでしょ?」
一人で帰るのなら、少し距離もあるしと、岩崎は佐紀子へ言った。
「結構です!子供ではありませんからっ!」
佐紀子は、急に声をあらげて、岩崎と月子を睨み付けた。
「そうですか。まあ、道すがらには、寄席や百貨店もある。人力車も、容易く拾えるでしょう」
岩崎は、変わらず淡々とした態度で、佐紀子へ接した。
月子は、岩崎の傍で、何もできず、ハラハラするだけだった。
さあ、と、岩崎に促されたが、月子の体は上手く動かない。
佐紀子がいる、佐紀子に睨まれているというだけで、自分でも情けなくなるほど、頭の中は、真っ白になり、あわや、泣きそうになっていた。
「ああ、一人では荷台に乗れないか」
岩崎が、とってつけたような事を言って、月子を軽々抱き上げ、荷台に座らせた。
いきなりの事で、月子は、思わずひっと、小さく叫び体をこわばらせる。
「ははは、なっ?脇腹周辺は、くすぐったいだろう?」
さっきは、掴まれてたまらなかったと、岩崎は、何の事やら的に、一人喋っている。
そして、自転車に股がると、佐紀子へ、それでは失礼と軽く挨拶をし、自転車のペダルを踏んだ。
「……もう、大丈夫だ。気にすることはない」
岩崎が、言う。
「……旦那様……」
「なんだか、嫌なことばかりだな。まったく」
そして、岩崎は、ぐんと、速度を上げた。
「しかし……、あの、実《みのる》という男、なんなんだ?!あれでは、佐紀子さんも、苦労するだろうに」
ポツリと岩崎は言うが、そこは、月子も同じ思いだった。
佐紀子の着ていた、振り袖は、確か、月子が母と初めて西条家へ顔合わせに向かった時に着ていたもの。あの、燃えるような鮮やか紅色を、良く覚えている。
そんな、少し昔の着物を選んだのは、きっと、野口のおばだろう。
少しでも、華やかで、派手に、つまり、娘らしく飾り立てたかったのだろうが、実《みのる》に、ハッキリと酷くいことを言われた。
それでも、佐紀子は堪え、というよりも、堪えなければならないのだろう。
そこまでして、実《みのる》と結婚せざるをえない、ということに、月子は、なぜか、同情を寄せた。
今までさんざんな目に合わされた月子だが、佐紀子の幸先が、心配になった。
不謹慎だが、あの佐紀子の様子に、こっそり笑っても良いはずなのだ。しかし、月子は、同情を越えて、佐紀子の事を心配している。
なぜだろうと、不思議に思う月子の目に、広い背中が飛び込んで来た。
そう、きっと、岩崎が……、いや、旦那様が、いるからだ、と、月子は、自分の中にある、安心感というものに気が付いた。
すべて、岩崎のお陰なのだ。旦那様に、守られているからなのだ。
そんなことを、ひしひし思いつつ、月子は、そっと、岩崎の背に体を持たせかけた。
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