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「お、お、おに、にぎ、おに太郎ーー!」
お咲が、発声した。
「あぁ!!お咲!おに太郎じゃなくて、桃太郎だろ!まず、桃太郎ーー!と、バイオリンの音に乗せて……アンダンテで……って言ったのに」
お咲のいきなりの失敗に、舞台裏では山上が、おろおろしている。
「お、おにぎり……だ、だめだ、違うよ、中村!お咲、間違えちやったよぉーー!!」
舞台で、泣き出しそうになりながら、伴奏者の中村を見るお咲の姿に、升席の観客も固まった。
「ありゃ、花園咲子、失敗かぁ」
記者の野口は、顔をしかめ、沼田もはあ、と大きく息をつく。
「戸田君!構わんかね!桃太郎だ!」
楽屋からチェロを持って岩崎がやって来た。お咲の失敗に、先の演奏会で即興でピアノを弾き、岩崎を手助けした戸田へ声をかけた。
チェロだけでは、物足りないだろうと、岩崎が戸田にも、その実力を見込んで独演会の補佐を頼んでいたのだ。
「はい。出だしでつまずくのは、まずいです。私も、中村さんと一緒にピアノ伴奏でよろしいですか?」
「うん、戸田君、頼むよ。私もチェロを演奏する。それで、持ち直すだろうし、ダメなら、我々だけで、どうにか、観客を誤魔化す」
じゃあ、いくぞと、岩崎は平然と弓を引き、音を出す。
「え!ありがたい!といいますか、岩崎先生?!演奏しながら?チェロ抱えて?」
沼田は、驚きを隠せず、取材手帳にメモを取るのも忘れていた。
「ええ?!チェロって、歩きながら演奏するもんなんです?!」
スタスタと、弓を引きながら舞台へ向かっている岩崎の後ろ姿に、野口も釘付けになっている。
「あっ、ちょっと、すみません。私、ピアノ弾かないと」
戸田が、慌てて岩崎の後を追った。
「いや、ちょっと、ちょっと、山上先生?こーゆーものなんですか?!」
野口に詰め寄られた山上は、質問に答えられず、しどろもどろになりながら、岩崎と戸田の姿を目で追うだけだった。
流れるチェロの音色を聞いて、助っ人現ると中村が、ニンマリした。
「さあーーさあーー、お立ち会い!!桃太郎の鬼退治だよぉ!!」
中村の一言に、升席からも、拍手が起こる。
「お咲ちゃん!!」
「日本一!!」
激励の掛け声に、お咲は、はっとして、再び中村を見た。
「皆いるから、お咲、安心しろ」
中村の言葉に、お咲は、コクりと頷いた。
お咲の脇には、いつの間にか岩崎おり、立ったまま桃太郎の旋律を奏で続けている。その音に、戸田のピアノが被さっていた。
「さあ、お咲太郎の初陣だぞ!」
中村が、バイオリンの調子を早め、後ろにいるミケ、タマ、シロに扮した男達へ発破をかける。
「あーーーあーーーーー!!!」
伸びの良いお咲の声が、劇場内に響き渡った。
岩崎、中村、戸田も、内心ほっとしたのか、駆けるように音を繰り出し、賑やかに演奏して行く。
調子を掴んで、緊張がほぐれたのだろう。お咲は、いつものように唄い始めていた。
後ろでは、ミケ、タマ、シロが、各々踊り出す。
わあっ!と、観客席からは歓声が沸き起こった。
「桃太郎ーー!!」
締めの一声に、観客からは大きな拍手が送られ、数々の掛け声も飛んで来る。
「にくーーー!!肉太郎ーー!!」
軽快な肉太郎の唄が始まった。
中村が、調子を変えて、お咲に合わせる。
「肉?!そ、それは、私は知らんぞ?!中村!」
岩崎の弓が止まった。愚痴のような驚きは、岩崎の元々の声が大きがため、これまた、お咲の肉太郎の唄を追いかけるように響き渡ってしまう。
わはははと、観客は大笑いして、
「にぎにぎーー!だよっ!」
「そりゃーおにぎり太郎だろっ!」
「いやぁ?髭太郎じゃなかったかぁ??」
わあわあと、楽しげに言いたい放題になる。
「お咲、ちゅっちゅっちゅーの唄、作ったんだ!!」
お咲も得意になって、観客へ声をかけた。
「いいぞ!」
「お咲ちゃーん!やっとくれぇー!」
あちらこちらから掛け声が飛び交い劇場は、もうお咲のもの、になっている。
「……中村、お前伴奏できるか?なんだか、唄が増えてるんだが?」
岩崎が小声で中村を伺う。演奏できない様ならこれで、一旦幕く引きにして、独演会を始めれば良いと岩崎は思っている様だ。
「おい、皆の衆!ここに、野暮助けがいるぜぇ!」
中村が、バイオリンを構え直し、ミケ、タマ、シロ役にも合図する。一同は、わかったとばかりに、これまた、勝手に踊り出す。
わはははと、劇場は笑いの渦が巻き起こり、観客には、ついて行けず呆然としている岩崎を指差す者まで出てくる始末だ。
「にぎにぎーー!」
お咲が勝手に唄い出し、ミケ、タマ、シロも、トンボを切って見せ場を作る。
おおっ!!と、大きなどよめきが起こり、そして、お咲と共に、にぎにぎーー!と大合唱が始まった。
戸田が、皆に合わせて和音を連打し始める。
中村も、演奏しながらチラチラ岩崎を見る。
視線に耐えかねたのか、岩崎は、負けたとばかりに、お咲の唄に合わせてチェロを演奏し始めた。
「ちゅっちゅっちゅー!ちゅっちゅっちゅー!」
お咲曰くの、新曲、ちゅっちゅっちゅーの唄が始まり、観客達は、腹を抱えての大笑い。
「ねぇ?月子さん?お咲ちゃん、ネズミの唄作ったのかしら?」
桟敷席では、芳子が笑いながら月子へ言った。
「お咲ちゃん、いつの間に?」
月子も初めて聞く唄だと、耳を傾けるが、次の瞬間、息が止まるかの思いに襲われる。
「おでこに、ちゅっちゅっー、二人で、ちゅっちゅっちゅー」
腰をフリフリ、口を尖らせ唄うお咲に、観客も、その意味を察したようで、一斉に吹き出した。
「お、お咲!やめなさいっ!」
チェロを演奏する手を止め、岩崎が慌てる。
月子は、これまた、大笑いしている芳子の隣で小さくなった。
どう考えても、岩崎と月子二人の挨拶、を、唄っているとしか思えない。
月子には、「お咲、それ嫌い。顔を洗ってくる」と、袖で額を拭き廊下を走っている姿が思い起こされていた。
岩崎も、舞台上でありながら慌てきっているということは、確実に、あれ、のことを、お咲は唄っているのだろう。
「子供は良く見ているものよ?」
ほほほと、朗らかに笑う芳子の一言に、月子は真っ赤になった。