さあっと幕が引かれ、お咲の前座は終わりを告げた。
観客は、やんややんやの大騒ぎで、歓声はなかなか止まない。
「お咲、まちがえちゃったよぉ」
顔を強ばらせながら、舞台を下がって来た新人歌姫──、花園咲子ことお咲は、舞台袖で意気消沈している。
「仕方ないねぇ、そこんところは、記事にはしないとするか」
「まあ、新曲が盛り上がったから良しとして……でも、婦人雑誌にも少女雑誌にも、ちゅっちゅっは乗せられないなぁ」
記者二人組が、お咲を責めているのか、からかっているのか、どちらともつかない言いぐさでへらへらしている。
「あのなぁ、あんたら大人げないぜ。お咲、凄い拍手だろ?落ち込むなんておかしいぞ?!」
中村が精一杯慰めの言葉をかけてお咲をなだめ始めた。
「戸田君!」
小さく、それでいて、重い声が中村の言葉を遮った。
岩崎が、真顔で歩み始める。
はい、と返事をして、伴奏者である戸田が続く。
「おっ、京さん!頼んだよっ!会場盛り上げてくれよ!」
客席にいたはずの二代目がいつの間にかやって来て、ニマニマしている。
「いっやぁー、今回は相当な客数だからねぇ。なにかと銭が動いて……」
二代目はそのまま、満面の笑みを浮かべた。
「田口屋さん、それなら、幕間かなにかで我々の宣伝もお願いしますよ」
「ああ、そうだなぁ。女学生風のお客も大勢いるし、雑誌も売れるように一声、いや、二声、たのみますよぉ」
売上に繋げようと、記者二人組が粘り始める。
「そんな間合いはない!」
岩崎が、怒ったように言うと、戸田を引き連れ舞台へ向かった。
「京さん?どう言うことだい?」
演奏に集中しようとしている岩崎は、二代目を無視し舞台中央へ向かっている。
「あーー、それが、岩崎のやつ、幕間なしの、通しでやりきるつもりらしくて……」
「はあ?中村のにいさん、そりゃまた?どういうことだい?」
二代目は、幕間で、弁当に菓子についでに新聞、雑誌も売って小銭を稼ぐつもりらしく、訳がわからんと中村に責めよった。
「全二十曲、休みなしで演奏するんだとさ」
そんな無茶なと中村も呆れている。
「はあ?こっちの商売は?!」
「二代目、そこかよ!」
二代目と中村の言い合いが始まろうとした瞬間、岩崎が弓を引き、戸田のピアノが鳴った。
それを合図に、舞台の幕がさっと引かれ、升席からは、どよめきと期待の拍手が沸き起こる。
「……つまり、先生は休みなしで演奏するおつもりで?!」
「いや、それも、二十曲?アンコール、いけるんですか?!」
急に舞台進行を心配する記者二人組へ、中村も眉尻を下げ、小さく首をふった。
どう考えても、無茶な話だ。
「……岩崎のやつ、どうせやるなら、とことんだとかなんとか、言い出して……」
「あんこ売りはできるのかよっ?!」
ため息混じりの中村へ、二代目は、商売丸出しで掴みかかる。
「い、いや、あんこ売り、じゃなくて、アンコールだって……」
「だからなっ!あんこの時に、こっちは、あんパン売る段取り立ててるんだよっ!」
二代目が声を荒げた。
「旦那様は、体が大きいから、休まなくてもできるよ!一番上の兄ちゃんは、いつも休んでなかったよ?」
お咲が急に口を挟んでくる。
突然のことに、中村と二代目も、力が抜けた。
「いや、お咲、それは、お前の兄ちゃんが働き者だって話なんだろ?岩崎とはちょっと違うんだが?」
お咲の兄ちゃんとやらは、休みなく農作業を行っていたのだろう。それもなかなか凄いことではあるが、中村は、お咲をなだめるごとで、この場をまとめようとした。
「できるよ!お咲は失敗したけど……」
と、ガックリ肩を落とし、お咲は小さくなった。
「結構、引きずるんだなぁ」
記者の沼田が半笑いで言うが、それがこたえたのか、お咲の顔が歪んだ。
「お咲は、まだ子供だぜ?それを、何を勝手に、花園咲子デビューだ……」
中村が、ちらりと二代目を見て眉をしかめる。
「いや、儲けになるならやってみなきゃー!それが、商売の鉄則だろ?」
二代目は、すっかり計算高くなっており、何を言っても儲けに直結する考えしかないようだ。
ダン!と、ひときわ大きくピアノの和音が鳴り響く。
岩崎の顔つきが変わったのが、劇場の何処にいても分かった。
それは、桟敷席にも伝わったようで、
「ヴィバルデの冬ね。前回の発表会で、即興演奏したのが受けたから、今回は始めに持って来たのね……」
芳子が、月子へ囁き、演奏に期待をかけてか目を輝かせている。
「始まったようだから、月子さん、ごめんなさい……」
ところが、芳子は席を立った。
「そろそろ、お偉方にご挨拶がてら同席しないと……」
さも面倒そうに、芳子は肩をすくめている。
「あの、それは……」
つまり、来賓席へ移動して、集まった皆をもてなすということなのだろう。
月子にも、芳子の言う意味合いは直ぐに分かった。すでに、男爵は皆と懇談しながら、観賞しているのだ。芳子と離れ離れでいるというのは、どこか、おかしい。
では、月子は?
もしかしたら……岩崎の妻として挨拶に顔をださねばならないのだろうか?
あちらの席には、どう見ても、只者ではない人々が集まり、おまけに、お忍びで宮家のお方まで来られている。
そんな中に飛び込む事は月子には到底無理な話だった。
でも……。と、月子は惑う。
立場上は、岩崎の妻なのだ。
今日のこの晴れの日に集まってくれた礼を述べるのは筋ではないのか?
ただ、平民である月子には、雲の上の世界で、どうすれば良いのか、考えるだけで緊張してしまう。
舞台から、決め細やかで胸踊る旋律が流れて来ているにも関わらず、月子の耳は何も受け付けない。
強ばった表情で俯くしかできない。
「ごめんなさい、月子さん。ここからは、一人でかまわないかしら?」
芳子は、月子へ気を使いながら男爵と合流すべく貴賓席へ向かった。
取り残された月子は、じっと俯いている。
岩崎のチェロの音に夢中になるはずなのに、観客達と一体になって、大きな拍手を送るはずなのに。
それは、今の月子には到底出来ない事だった。
自分は、岩崎を支えられているのか?いや、妻として、支えないといけないはずが、ただ、座っているだけではないか。
胸が締め付けられ、月子の頬に涙が一筋伝った。
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