テラーノベル
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圭ちゃんを追い出してしまった翌日から
俺たちの関係はまるで冷たい氷の板が間に挟まったように、ギクシャクし始めた。
いや、ギクシャクというより
一方的に俺が圭ちゃんから逃げている
という方が正確だろう。
まるで、透明でありながら決して超えられない厚い障壁が、俺と圭ちゃんの間に構築されてしまったかのようだった。
その壁は、俺自身が必死に積み上げたものだった。
あの日、彼の口から飛び出した「気持ち悪い」という言葉は、ただの音の羅列ではなかった。
それは、鋭利な刃物のように俺の胸を切り裂き、深部にまで達する痛みを伴った。
その言葉が、まるで呪いのように俺の脳裏にこびりついて離れない。
毎晩、まぶたを閉じれば
あの時の彼の表情
ほんの一瞬、俺に向けられた嫌悪の色がフラッシュバックする。
そして、耳の奥では、彼の冷たい声が繰り返し
『お前のそういうとこが昔から気持ち悪ぃっつってんだよ』と響き渡るのだ。
その度に俺は飛び起き、心臓が喉元までせり上がるような動悸に襲われた。
呼吸は乱れ、冷たい汗が全身から噴き出す。
この世の全てが俺を責めているような、そんな錯覚に陥る。
俺の存在そのものが、彼にとって迷惑だったのかもしれないと深く深く刻み込まれてしまった。
あんなにみっともなく涙を流して
圭ちゃん、更に幻滅したかもしれない。
後悔と自責の念が渦巻き、眠れない夜が延々と続いた。
明け方、ようやく浅い眠りについたかと思えば
すぐに悪夢にうなされて目が覚める。
倦怠感と絶望感が全身を覆い、朝の光さえも俺には重く感じられた。
重い足取りで家を出て、満員電車に揺られながらも、頭の中は圭ちゃんのことでいっぱいだった。
学校に着く頃には、体中が鉛のように重く
胃のあたりがずっしりと沈んでいるような不快感があった。
昇降口をくぐると、途端に五感が研ぎ澄まされる。
靴箱の配置、廊下の生徒たちのざわめき
教室へと続く階段の段差、全てが圭ちゃんの存在を示唆しているように感じられた。
無意識のうちに、俺は彼の姿を探してしまう。
背後から聞こえるわずかな足音にも敏感になり
誰かが俺のすぐ後ろを歩いているだけで、それが圭ちゃんではないかと身構えてしまう。
そして、彼の後ろ姿、特徴的な歩き方
少しだけ早足になる癖
わずかな仕草でも見つけてしまえば、心臓が大きく跳ね上がり
ドクン、ドクンと耳元でその音が響く。
呼吸は浅くなり、まるで溺れているかのように苦しい。
冷たい汗が背筋を伝い、全身の毛穴が開くような感覚に襲われる。
彼の視線がこちらに向く前に、まるで幻影のように彼の前から姿を消す。
一度見つかってしまえば、あの言葉が再び飛び出すのではないかという
根拠のない、しかし強烈な恐怖が俺を支配していた。
『おい、りゅう』
背後から聞こえる、圭ちゃんの少し低くなった
それでいてどこか焦りを含んだ声に、俺の足は勝手に加速した。
振り返ることはできなかった。
彼の顔を見てしまったら
彼の目に映る嫌悪の色を確認してしまったら
きっと動けなくなる。
『りゅう、話が───』
休み時間になれば、教室の扉が少し開く音にも敏感になった。
わずかな隙間から彼の顔が覗いたり、彼が俺の席に近づいてくる気配を察すると
手に持っていた教科書やノートを雑に掴み
まるで火事が起きたかのように教室を飛び出した。
行き先は決まっていない。
ただ、彼から遠ざかることだけを考えて
人気のない場所、例えば滅多に使われない裏階段
古くなった体育館の裏
あるいは図書室の誰も座らないような一番奥の席などへと駆け込んだ。
そこで息を潜め、心臓の動悸が落ち着くのを待つ。
耳鳴りのように響く心臓の音だけが
俺が今、どれほど動揺しているかを教えてくれた。
昼休みはもちろん、放課後も、俺は徹底的に圭ちゃんから逃げ回った。
友達と連れ立っていても、常に圭ちゃんが近づいてこないか警戒していた。
まるで背中に「圭ちゃんセンサー」でもついているかのように、彼の存在を瞬時に察知する。
腐れ縁なだけあって、大体は分かる。
彼の姿が視界の端に映るだけで、会話の途中でさえも不自然に足が止まり
話題を変え、そちらの方へと目をやってしまう。
友達から「どしたの?」「なんか最近日高といること少なくね?」と心配そうな声がかけられても
俺は「なんでもない」「ちょっとね」と誤魔化すばかりだった。
彼らに、俺と圭ちゃんの間に何が起こったかなんて、とても話せることではなかった。
一人でいる時は、彼の存在を察知しては、別の方向へ急いで向かった。
彼と同じ方向を向いていることに気づけば、わざと遠回りをしてでもルートを変更した。
彼の姿が見えなくなるまで
一度も振り返らずに、ただひたすらに歩き続けた。
一度、駅のホームで鉢合わせそうになった時には心臓が止まるかと思った。
放課後、いつも通りのように彼に気づかれないように素早く教室を出て
駅の改札を抜けたところだった。
ちょうど電車がホームに滑り込んできたとき、人ごみの向こうに圭ちゃんの姿を見つけた。
彼は俺と同じ方向、つまり俺が乗ろうとしていた車両の少し後ろに立っていた。
まだ彼はこちらに気づいていない。
そう思った瞬間に、彼の視線が俺のいる方へ向いた、そう感じた。
その刹那、俺は反射的に逆方向の、人が少ない車両へと駆け込んだ。
心臓がはちきれんばかりに脈打つ。
ドアが閉まる直前
ガラス越しに圭ちゃんの戸惑ったような顔が見えた気がしたけれど、確認する勇気はなかった。
確認して、もしそれが本当に戸惑いの顔だったとしても
俺にはどうすることもできなかっただろう。
きっと、彼は俺を追いかけてきたのだろう。
一度だけ、別の車両に乗ったはずなのに、隣のホームから彼の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
気のせいだと自分に言い聞かせ、俺は必死にうつむいたまま彼の気配から逃れようとした。
だが、俺はもう彼に嫌われたとしか思えない。
だからこそ、これ以上彼の感情を害したくなかった。
そして何より、あの言葉の真意を問うのが怖かった。
あの「気持ち悪い」という言葉の裏に隠された
さらに残酷な真実を突きつけられるのが、何よりも恐ろしかったのだ。
学校での距離はもっと近かった。
席順は、圭ちゃんのすぐ後ろが俺の席。
たった1メートルほどの距離なのに、その間に無限の壁があるようだった。
まるで、分厚いガラスの壁が俺たちの間にそびえ立っているかのように。
授業中、先生が配ったプリントを後ろに渡すときも、圭ちゃんとは目を合わせられなかった。
正確には、俺が目を合わせなかったのだ。
手が触れないように、顔を見ないように
まるでそこに圭ちゃんがいないかのように振る舞う。
息を止めて、圭ちゃんの背中越しにそっとプリントを隣の席の生徒に渡す。
俺の心臓は常に警鐘を鳴らしていた。
触れるな、見るな、聞くな、と
圭ちゃんが何度か「りゅう」と小さく声をかけてきたこともあったが、俺は聞こえないふりをして
そっとプリントを渡すだけだった。
彼の声が、俺の耳に届くたびに
体が硬直し、冷や汗が吹き出た。
圭ちゃんも、最初は俺に話しかけようと何度か試みていた。
休み時間に「なあ、りゅう」と、隣の席から身を乗り出すように声をかけようとしたり
放課後、俺が鞄を持って急いで教室を出ようとすると
「おい、待てって」と腕を掴もうとしてきたりした。
その度に、俺は寸でのところでその手を避け
足早に教室を後にした。
彼の指先が、俺の服の裾をかすめるような時もあったが、俺は振り返らなかった。
逃げ足の速さだけは誰にも負けないという自信を持って、彼の追跡を振り切った。
振り返る余裕はなかったが
背後から感じる彼の気配は、明らかに苛立ちと
そして少しの悲しみを帯びていたのが分かった。
それでも、俺は足を止められなかった。
彼が俺に近づくたびに、心の奥底で警報が鳴り響くのだ。
『もう圭ちゃんの言葉は聞きたくない、もう拒絶されたくない』
再びあの冷たい視線と、感情のこもらない声で
「気持ち悪い」と言われるのが、何よりも怖かった。
その言葉は、一度聞けば耐えられないほど重い鉛のように俺の心に沈み込み
二度目には俺を完全に破壊してしまうだろうと
心のどこかで分かっていた。
そうして俺たちの間に少しの間、距離が空いていった。
数日、いや、数週間だったかもしれない。
まるで俺が意図的に作り出した、触れることのできない透明な壁のように。
彼の困惑と苛立ち、そして微かな悲しみが
その壁を通して俺に伝わってくるのを感じながらも、俺はそれを壊すことができなかった。
自分から彼に近づくことも、彼からのアプローチを受け入れることも今の俺には不可能だった。
この一方的な逃避行は、俺の精神を確実に蝕んでいった。
夜は眠れず、昼間は常に圭ちゃんの影に怯え
食事も喉を通らない日が続いた。
鏡に映る自分の顔は、日に日に痩せこけ
目の下には深い隈ができていた。
毎日、朝起きるたびに、この関係が永遠に続くのではないかという絶望感に襲われた。
あの、優しくて、いつも俺を気にかけてくれた圭ちゃんはもういない。
彼が俺を拒絶した日以来
俺の心は常に張り詰めて、いつ破れてもおかしくないガラスのように脆くなっていた。
この異常な逃避行が、いつまで続くのか
いつか彼に本当に見放されてしまうのではないかと、不安に押しつぶされそうになりながらも
俺はただひたすらに逃げ続けた。
それが、今、俺に残された唯一の
そして最善の選択だと信じ込んでいた。
そうしなければ、俺は壊れてしまうような気がした。
しかし、そんな日々が、ある日突然終わりを告げた。
木曜日の五時間目
体育の授業中のことだった
陽差しは容赦なく照りつけ、体育館の中は分厚い熱気とまとわりつく湿気が篭もりきっていた。
高く開け放たれた窓からは、うだるような生ぬるい空気しか入ってこず
外の風はほとんど届かない。
まるで呼吸をするたびに、澱んだ空気を吸い込んでいるような重苦しさが肌にまとわりつく。
ジャージの上着はとうの昔に脱ぎ捨てて半袖でいたけれど
肌を滑り落ちる汗が不快で
何度もTシャツの裾を引っ張っては、腹部を扇いでみたりした。
一息つくたびに、熱い空気が肺を満たすのを感じる。
授業はバスケットボール。
体育館の床には、何十個ものボールが跳ねる乾いた音が単調に反響し
生徒たちの高揚した掛け声や、時折弾けるような笑い声がぶつかり合っている。
その中で、俺はただ一人
まるで世界から切り離されたような感覚で、目の前のボールを力なくドリブルしていた。
意識だけが、遠いどこかへ漂っているようだった。
ここ数日、まともに眠れていなかった。
夜中に目が覚めても、天井のシミをただひたすら見つめているだけで、時間が過ぎていく。
食欲もまるで湧かず、朝ごはんどころか
昼休みになっても弁当に手をつけられなかった。
身体が軽いわけではない。
鉛を仕込んだかのように重く、ただただ全身から力が抜けきっている。
足の裏に重石がぶら下がっているみたいに一歩踏み出すのも億劫で
動きは鈍く、ボールの不規則な跳ね返りにすら反応が遅れてしまう。
いつもなら簡単にキャッチできるパスも、指先を滑っていく感覚がする。
心の中にはずっと、黒い澱のようなものが沈殿していた。
それが、いつの間にか身体の奥深くまで
じわりじわりと浸透し、全身を蝕んでいるような感覚。
胸の真ん中をぎゅっと掴まれているみたいに、ずっと息苦しい。
どうしてこんなふうになってしまったのか、原因はわかっている。
否応なく、理解してしまっている。
けれど、それを認めたくなくて
ずっと見ないふりをして過ごしてきた。
目を閉じれば消えてしまう幻だと、自分に言い聞かせ続けてきた。
そんなときだった
急に、視界の端が白く滲み始めた。
体育館の床に引かれた鮮やかな白線が、ぐにゃぐにゃと歪み
まるで水面に映った光のように揺れ、波打っているように見えた。
足元が、頼りなくふらつく。
身体の中心が定まらない感覚に襲われた。
天井に規則正しく並んだ蛍光灯の光が、やけに眩しく感じられ
生理的な不快感に眉間が痛んだ。
思わず目を細めた、その、次の瞬間――
耳鳴りが始まった。
キーン、と、脳髄の奥で鋭い金属音が響き渡る。
それはどんどん大きくなり、周囲の音をすべて飲み込んでいくようだった。
担任の指示もボールの音も、何も聞こえなくなる。
世界から音が消える。
(大丈夫……もう少し……あと少しだから……)
心の中で、壊れたテープのように何度もそう自分に言い聞かせる。
もう少しで5時間目の授業は終わる。
あとほんのちょっとだけ耐えれば、この地獄のような時間から解放される。
心の中でその言葉を繰り返し、もう一歩
震える足を踏み出そうとした、まさにそのときだった。
ふっと。
世界が、一瞬にして真っ暗になった。
何も見えない。
光も、色も、形も、すべてが消え失せた。
同時に、聴覚も嗅覚も、触覚も、あらゆる感覚が曖昧になっていく。
身体の芯から力が、温かい水が流れ出るかのように、すうっと抜けていくのを感じた。
足元から崩れていくような、地面に吸い込まれていくような、奇妙な浮遊感。