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けれど、それは恐怖を伴うものではなく
むしろすべてから解放されるような甘美な感覚だった。
咄嗟に、危険を察した本能が、俺に目をぎゅっと閉じさせた。
来るべき衝撃に備えて、震える肩をきつくすくめる。
だが――。
「りゅう!」
焦燥に駆られたような、切羽詰まった誰かの声が、遠く、耳の奥に飛び込んできた。
その声は、消えかかった意識をかろうじて繋ぎ止める鎖のようだった。
その直後、腕に強い衝撃。
そして、硬い床に打ち付けられる感触は、どこにもなかった。
代わりに、ひどく柔らかくて
けれど確かにしっかりと張りのある腕の中に身体が受け止められた。
誰かの体温が、じんわりと俺の全身を
内側から包み込んでいく。
安心感と、微かな甘い香りが意識を揺り起こした。
おそるおそる目を開けると、まだ白く滲む視界の中に、見慣れた顔が飛び込んできた。
圭ちゃんだった。
普段はどこか気怠げで
何を考えているのか掴みどころのない飄々とした表情を貼り付けている彼が
そのときばかりは眉間に深い皺を寄せ、真剣な眼差しで俺をまっすぐに見つめていた。
その瞳には、焦りと、そして、俺に対する明らかな心配の色が浮かんでいた。
彼の腕が、俺の背中と膝裏をしっかりと支え
まるで壊れ物を扱うかのように優しく、だが力強く俺の体を抱え上げていた。
(……圭ちゃんに、抱きかかえられてる…?)
そう理解したとき、一気に全身が羞恥と戸惑いで熱くなった。
こんな状況で、彼の腕の中にいるなんて。
だが、口から言葉は出てこなかった。
発せられるのは、浅い呼吸と、熱い吐息だけだった。
「おい、しっかりしろ…りゅう」
彼の声が、驚くほど近い。
そして、微かに震えていた。
そんな、感情をむき出しにした圭ちゃんを見るのは、初めてだった。
いつもどんなときも冷静で、まるで動じない彼が、こんなにも取り乱している。
その事実が、ぼんやりとした意識の奥に、深く刻み込まれていく。
彼のTシャツの匂いが、鼻腔を掠めた。
汗と、わずかに残るシャンプーの、混じり合った匂い。
それは、熱のこもった体育館の空気の中で、唯一の清涼剤のように感じられた。
温かくて、ひどく優しい香りだった。
「け……い、ちゃん……」
か細い、今にも消え入りそうな声で彼の名前を呼ぶと、圭ちゃんはすぐに動いた。
俺を抱きかかえたまま、周囲にいた体育の先生や、心配そうに集まってきたクラスメイトたちに向かって大きな声で告げる。
「こいつちょっと保健室連れてきます」
返事を待つこともなく、そのまま駆け出す。
俺を抱きしめたまま、熱気の篭もった体育館を飛び出し
外へと続く廊下を、迷いなく走っていく。
彼の規則正しい足音と、荒い息遣いが、俺の耳に届く。
彼の逞しい体温が、汗ばんだ俺の肌を通して、じんわりと伝わってくる。
その温もりに、抗うこともせず
ただひたすら甘えるように体を預けているうちに、俺の意識はだんだんと遠のいていった。
圭ちゃんの声が、足音が
遠く、遠くなる。
まるで水の中に沈んでいくように
薄れて、やがて何も聞こえなくなった。
次に目が覚めたとき
視界に広がっていたのは見慣れない真っ白な天井だった。
記憶にある自室の天井とは違う。
頭の下には、ふわふわとした枕の感触。
身体を覆うシーツからは、清潔な、わずかに薬品の混じった匂いがした。
どこか遠くで、壁掛け時計の針が規則正しく進むカチカチという音が聞こえる。
「……やっと起きたか」
聞き慣れた声に、ゆっくりと顔を向けると、そこに圭ちゃんがいた。
さっきとは違い、もう制服に着替えていた。
ネクタイは緩く結ばれ、シャツのボタンも上までは閉じられていない。
体育の授業が終わって、だいぶ時間が経ったのだと、その制服姿を見て初めて気づいた。
「ここは……?」
ぼんやりと尋ねると、彼は心配そうに眉間を寄せたまま、静かに答えた。
「保健室だ」
その言葉を聞いて、ぼやけていた視界が一気にクリアになり、現実感が鮮明に戻ってくる。
そうだ、俺は倒れたんだ。
圭ちゃんに、ひどく迷惑をかけてしまった。
そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
慌てて身体を起こそうとすると、急に視界がぐるぐると大きく回って
胃の奥からこみ上げてくるような吐き気に似た感覚が襲ってきた。
頭がガンガンと痛み、平衡感覚が失われる。
「わ、ごめん、俺……っ」
咄嗟に、謝罪の言葉が口から漏れた。
だが、すぐに圭ちゃんが俺の肩を掴み、優しく
けれど確実に、ベッドに押し戻した。
「まだ寝てろって。無理すんな」
彼の声は、いつになく優しかった。
普段の彼からは想像もできないほど、深く穏やかな声音。
その声に、身体が自然と従った。
促されるまま再び横になると、圭ちゃんは保健室にあった丸椅子を引き寄せ
音を立てずに俺の隣に腰かけた。
じっと、俺の顔を見つめている。
「先生は……?」
保健の先生がいないことに気づき、尋ねる。
「職員室。授業が終わって、先生に『俺がこいつ連れて帰るんで』って言って、お前が目覚ますの待ってた」
「そう……体育の授業って、今……?」
まだ授業中なのか、もう終わったのか。
時間の感覚が曖昧で、尋ねる。
「とっくに終わってる。っていうか、もう放課後な」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
まさか、そんなに時間が経っていたとは。
「え、嘘……そんなに寝てたの?」
「ああ。二時間くらい爆睡してたぞ。よっぽど疲れてたんだな」
呆れたように言われて、ますます情けなくなる。
心配をかけただけでなく、時間まで奪ってしまった。
そんな俺の心の動きを見透かしたように、圭ちゃんが静かに言った。
「つーか……やっと俺と話す気になったのか」
その言葉は、不意打ちだった。心臓がドクン、と大きく跳ねる。
「あっ」
戸惑って彼を見ると、圭ちゃんはわずかに視線を逸らした。
その表情には、何とも言えない複雑な感情が入り混じっているように見えた。
「最近ずっと俺のこと避けてただろ」
唐突に圭ちゃんがそう切り出した瞬間
全身がビクリと強張った。
まるで身体の神経が、一本の糸で繋がっているかのように一気に緊張が走る。
「……あ、いや……だって……」
図星だった。
頭では否定の言葉を、言い訳を
次から次へと並べたかった。
しかし、口がうまく回らない。
言い訳の言葉は喉の奥で閊えて
結局、何も言えなかった。
ただ、唇を震わせるだけで、発音できない。
その沈黙が、圭ちゃんにとってはすべてを物語っていたのだろう。
視線を落とし、シーツの端をぎゅっと握りしめている俺を見ながら
圭ちゃんは深く、諦めにも似たため息を混じりに言葉を続けた。
「あのな、りゅう、俺はお前のこと──」
その“続き”を聞いてしまったら、何かが決定的に壊れてしまいそうで、ひどく怖かった。
今まで築き上げてきた関係が、音を立てて崩れ去ってしまうような、そんな予感。
俺は反射的に、両手で耳を塞いでいた。
「おまっ……そんな、耳塞ぐこたねぇだろ」
ムッとした、けれどどこか呆れているような声色。
おそるおそる視線を上げると、圭ちゃんが少し苛立った顔で
だが怒っているというよりも、困惑しているような、そんな表情でこっちを見ていた。
「だって……また圭ちゃんに、“気持ち悪い”って言われるの、やだ……」
喉の奥から絞り出したその言葉が、自分でも情けないほど震えていた。
目の奥がじんわりと熱くなる。
涙がこみ上げてくるのを必死に堪えるが、視界がぼやけて、息がうまく吸えない。
圭ちゃんの顔をまともに見ることができなかった。
「だからあれは違えって……本心じゃないんだよ」
優しさと、そしてわずかな苛立ちの混ざった声音で、圭ちゃんが俺の手を掴む。
耳を塞いでいた手を、無理やり引き剥がそうとしてくるのに、俺は必死に抵抗した。
手のひらに力を込め、彼の手から逃れようと|踠《もが》く。
「本当は……思ってたんだよね。俺のこと、気持ち悪いって。だから、あんなこと言ったんでしょ」
自分で言いながら、胸の内側が
まるで刃物で何度も斬りつけられているかのようにズタズタになっていくのがわかった。
弱りきっていた心に、さらに鋭い刃物を自分で突き立てるような言葉だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
この苦しさを、彼に、わかってほしかった。
「思ってねえよ」
堪えきれなくなったように、声を荒げて圭ちゃんが反論する。
「……あれは、ただ……俺もムキになっちまって、言葉の、彩っつーか……」
圭ちゃんはバツの悪そうな顔で、語尾を濁す。
視線は泳いでいて、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
その曖昧さが、かえって俺の心に深く突き刺さる。
言葉の彩などと、そんな軽いもので済まされてたまるか。
「言葉の、彩……?そんなの、もっと酷いよ……っ」
ぽつりとこぼした瞬間
今まで堰き止めていたものが決壊したように、涙がとめどなく溢れ出した。
ボロボロと、止まることなく
熱い雫となって頬を伝って落ちていく。
視界は涙で歪み、圭ちゃんの顔はもう見えない。
圭ちゃんが焦ったように手を伸ばしてくるのが見えたけれど、それすらも拒絶したくて
俺は顔を伏せたまま|噦《しゃく》り上げる
嗚咽が、喉の奥から不規則に漏れた。
「ちょ、泣くなって……」
彼の声が、驚くほど近くで聞こえる。
その声は、微かに動揺していた。
──頭では分かっていた。
あれは、俺と圭ちゃんの激しい口論の末に
咄嗟に飛び出した、彼がカッとなってしまった一言だったということ。
本心ではないと、理屈では理解していた。
でも、あの瞬間、あの「気持ち悪い」というたった五文字は
鋭いナイフみたいに俺の胸に深く突き刺さって
ずっと抜けなかった。
俺の、圭ちゃんに対する想いも
俺自身の存在も
そのすべてを否定された気がして、息ができなかった。
嫌われたかもしれない。
拒絶されたのかもしれない。
それが、この数日間、ずっと怖かった。
夜も眠れず、何も喉を通らなかったのは、すべてそのせいだった。
「俺は……っ、圭ちゃんより……大事な人なんて、いないんだよ……っ」
溢れそうな
いや、もうすでに溢れ出している想いが喉の奥からせき止められなかった。
理性では抑えきれないほどに、感情が爆発する。
「俺、人付き合い苦手だし…そんな中で、圭ちゃんだけが心から安心できた場所で…っ、圭ちゃんが、世界の全部で……俺の、全部で……っ、はっ……はぁ……」
息が詰まる。
酸素がうまく入ってこない。
喉がヒューヒューと変な音を立てて、目の前がぼやけていく。
「ずっと……三年……っ、三年も片想いしてきたのに……っ、ゲイだって言っても、笑わないでくれたのに……っ」
声が震える。
鼻が詰まって、呼吸が苦しい。
胸の奥がぐちゃぐちゃになって、言葉が呂律を失っていく。
伝えたいのに、うまく伝えられない。
「俺が、圭ちゃんのこと……そういう目で見てたって知っても……気持ち悪いなんて、一度も……っ」
涙が止まらない。言葉の端々が嗚咽で途切れて
もはや何を言っているのか自分でもわからなかった。
「それなのに……っ、あんな急に……“気持ち悪い”なんて………っ、好きな人に……そんなふうに言われるの……つらくて……苦しくて…」
「もう、どうしたらいいか…わかんなかったんだよ……っ、うっ……ひくっ……」
俺の世界は、どんどん狭くなっていく。
耳鳴り、霞む視界、浅くて乱れた呼吸
まさに過呼吸になる寸前だった。
もう、消えてしまいたい。
すべてを、何もかも、なかったことにしたい。
この苦しさから解放されたい。
──その時だった。
温かいものが、そっと背中に触れた。
それは、恐る恐る触れるような、優しい手つきだった。
圭ちゃんの腕が、俺の体をぎゅっと抱きしめていたのだ。
思い切り、力強く、俺の身体を彼の胸に引き寄せられる。
圭ちゃんの体温が、あまりにも温かくて
心臓が止まりそうになる。
汗ばんだ肌と肌が触れ合う感触が、はっきりと伝わってきた。
「りゅう……悪い、マジで悪かった。酷いこと言って、ごめんな」
耳元で、小さく震える声。
涙で濡れた頬に、彼の温もりがじんわりとしみ込んでくる。
彼のシャツが、俺の涙で濡れていく。
「……け、けいちゃん…なん、で…おれの、こと……き……嫌いに、なったんじゃ……っ」
絞り出すように、掠れた声で尋ねる。
その問いに、彼はゆっくりと、だが確かな意思をもって首を横に振った。
「……嫌いになるわけねぇだろ、ばか」
たったそれだけの言葉なのに、全身から力が一気に抜けていく。
張り詰めていた緊張が溶け、そのまま倒れ込むように、圭ちゃんに体を預けた。
彼の腕の中で、俺は再び呼吸をすることができた。
けれど、すぐにまた心がざわついた。
嫌いじゃないと言われたのに、胸の奥に澱のように残っていた不安が、頭を|擡《もた》げる。
「……でもやっぱり俺……傍から見たら気持ち悪くないのかなって、気にしちゃって」
震える声でそう言うと、圭ちゃんは少し強い口調で、だが優しさを込めて否定した。
「誰がなんと言おうと、りゅうは気持ち悪くねぇよ。ぜってぇ」