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「……今度、旅行にでも行こうか。新婚旅行もちゃんと行けてなかったし、気を使ってくれたんだろう?」
伊織さんの言う通り、私たちは新婚旅行はしない選択肢をとった。伊織さんは気にしないでと言ってくれたものの、病院勤務の彼にまとまった休みをとってもらうのは気が引けた。
代わりにいつか旅行に行こうと話していたのだが、こんなすぐに実現するなんて。
「嬉しいけど、いいの? 呼び出しとかあるかもしれないし……」
伊織さんは当直勤務がない限り表向きは土日休みにはなっているが、呼び出しもある上に週末に外勤が入ることもある。そのおかげで結婚してから、休日の丸二日間を一緒に過ごしたことがないのだ。
「大きな病院ってことは医師の数だって多いんだ。調整さえすれば新婚旅行くらい問題ないさ。逆に緋真こそ大丈夫?」
「そっか。それなら行きたいな。私こそ融通が利く仕事だから大丈夫だよ」
「よかった。じゃあまたあとで決めようか。もし行きたいところがあれば考えいおいて」
「うん、ありがとう……」
いつの間にか、先ほどの甘やかな雰囲気はすっかりなくなっており、穏やかで優しい時間が流れている。
体には物足りなさを残しつつも、心が十分に満たされるのを感じていた。
伊織さんはもう一度私の髪へ触れ、ふわりと撫でると、僅かに目を細めた。
「……それにしても、緋真がはっきり言ってくれて嬉しいな」
「そうかな?」
「うん。今回みたいに知らないうちに誤解されたり不安にさせたりするのは嫌だから、思うことがあれば何でも言って。もちろん、俺もそうさせないようにはしたいけど、すべては難しいと思うから」
ひとつも取り繕っていない、伊織さんの本心からくる言葉だと感じられる。ここまで温厚篤実な人柄を持つ彼なのだから、嘘をつくことはおろか不倫なんて非道なことをする人間にはやはり思えない。
郁ちゃんとはピアスの件はもう少し様子を見てから、と話していたが、胸に秘めておくには苦しくて、おそるおそる話を切り出した。
「じゃあ、ひとつだけ聞いてもいい?」
「うん?」
「少し前に伊織さん、飲み会があったでしょ? あの時――」
彼の鞄の外ポケットに、ピアスが入っていたことを告げる。伊織さんは少し驚いたあと「気付いてたんだ」とこぼした。
「俺もこの間まで全然気づかなくて。あの日、同僚をタクシーで送ったって言っただろ。そのときに落としたかもしれないって、その子に言われて返したんだ」
「……そうなんだ。もしかしてその同僚って、医療秘書の子だったりする……?」
「あれ、話したかな。うちの医局の秘書の子なんだけど。ほら院長の娘さん」
「えっ、院長先生って……」
はじめて”彼女”に会った時から、ずっと頭にかかっていた靄が晴れていく。伊織さんはいつも「院長」と呼ぶから、すっかり忘れていた。東梨医科大学病院の院長は、”白鷹”院長だ。どうりで、聞き覚えがあると思った。どうして気付かなかったのだろう。
「ねえ、その娘さんの名前って……智美さん?」
「……名前まで話したかな」
さすがの伊織さんも訝し気な表情を浮かべる。知られてまずいこと、といった様子ではなさそうだ。
「違うの。実はその智美さんがうちの教室に通ってて、お会いしたことあるんだけど……その……伊織さんとの仲を匂わせるようなことを言われて」
授業の貸し切りから始まり、度重なる私への質問や、ピアスの落とし物について――そのすべてを正直に話せば、伊織さんは顔を歪ませた。
「彼女がそんなことを……? ごめん、気付かなくて」
「ううん……ただ、そこまでされるとやっぱり、気にしないなんてできなくて」
伊織さんが智美さんと何もなかったとしても、あからさまに牽制されているのだ。見て見ぬふりなどできない。彼は真剣な表情でこちらを見た。
「先に言わせて、緋真が心配してるようなことは何もないよ。俺にとっては院長の娘であってただの同僚で、それ以上でも以下でもないから。そこは信じてほしい」
伊織さんが智美さんと出会ったのは、彼の初期研修時代。智美さんはもともと体が弱く、通院が多かったこともあり、指導医が智美さんの主治医としてついていたことがきっかけで知り合ったらしい。
その後も何度か顔を合わせる程度だったが、伊織さんが臨床留学を終えて帰国したときに彼と同じ医局に秘書として配属され、院長からもなるべく気にかけてほしいと言われたのだとか。伊織さんが嘘をついているようには見えないし、おそらく院長先生に言われた以上蔑ろにできなかったのだろう。
「ピアスの件は、具合が悪いといった白鷹さんをタクシーに乗せた際に、彼女が俺にもたれかかって寝始めたんだ。すぐに起こしはしたけど、その時に入れたのかもしれない。どちらにしろ俺も軽率だったな」
「そんな……伊織さんは悪くないよ」
「いや、緋真を不安にさせたのは俺だし、これからは必要以上に彼女と関わらないようにするよ」
院長先生から頼まれた手前、そんなことをして大丈夫なのだろうか。浮かんできた不安の芽を潰すように、伊織さんの手が優しく頬を撫でた。
「そんなことで仕事がしづらくなることはないから。何かあれば、院長にも上手く伝えるよ。俺はそれよりも、緋真を悲しませるほうが嫌なんだ」
「本当に……?」
「ああ、大丈夫。だから緋真は何も心配しないで。もしまた白鷹さんに何か言われたら言って」
「……わかった」
頷いた私に、伊織さんは穏やかに微笑む。額に触れるだけのキスを落とせば、優しく頭を撫でてくれた。
「じゃあ、今日は寝ようか」
「……うん、おやすみなさい」
「おやすみ、緋真」
呟きと共に、部屋が真っ暗になる。隣を見れば、いつもより近い距離で伊織さんが眠っていて、眠らなきゃいけないのに胸の鼓動が速まった。
そっと唇に触れると、まだ少しふやけていて、先ほどたくさんキスをしたことを思い出す。
こんなことなら、もっと早く伝えておけばよかった。彼に抱かれたい気持ちも、智美さんへの不安も。少なくとも彼は私に対して嫌悪感は抱いていない。それどころか、想像していた以上に私のことを考えてくれていただなんて。
夫として妻に対して愛のある言葉を言ってくれている可能性もあるが、今はそれで十分だ。これからもっと、夫婦らしくなれればいいのだから。
そしていつか、「好きだ」と言ってくれたら……何も望まないのに。それは高望みしすぎだろうか。
考えを巡らせているうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
その音にドキドキと心地よさを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

#恋愛
ばたっちゅ
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コメント
1件
わあ、第12話読み終わりました…! ピアスの件、ちゃんと話し合えて本当に良かったですね。伊織さんが「緋真を悲しませる方が嫌だ」って言ってくれたところ、じんわり来ました。それにしても、智美さんが院長の娘さんだったとは…!話の中で「白鷹院長」って出てきた瞬間、あっ!って声が出ました。伏線の貼り方が丁寧で、世界観の広がりを感じます。 「好きだと言ってくれたら」って緋真さんが切実に願うラストも、すごく心に残りました。次が気になります…!