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潮の匂いが風に混じって、金属の甲板を滑るように流れていった。 豪華客船《オルフェウス》号は、白い霧を割りながら静かに港を離れつつあった。
アメ=レアの事件から、まだ三週間。
しかし、この豪華な旅の船出には、どこか“曇った影”が差しているようにも感じられた。
「お兄ちゃん!」
サキが紙コップを両手で掲げ、こちらへ駆けてくる。
「これ、オレンジジュース! さっきのビンゴ大会、めっちゃ楽しかったね!」
「……本当に当てたのはすごいよ。さすがサキだな」
「えへへ。 でもさ、お兄ちゃん……涼さんも一緒に来られたらよかったのにね。
向こうから戻ってきたあと、少しずつ元気になってたじゃん?
ああいうとこで、また笑ってほしかったなって」
サキは少しだけ寂しそうに笑ったが、すぐに「ま、仕方ないか」と肩をすくめた。
「涼さん、あっちの“仕事”で呼ばれちゃったんだよね。
……なんか、すごく大事なやつなんでしょ? ちゃんとご飯食べてるかなぁ……」
(ハレルは曖昧に笑う。異世界のことは言えない)
ハレルは小さくうなずいた。
(境界の揺らぎ……あれも原因か。
それでも、涼が明るさを取り戻しつつあるのは救いだ)
甲板の向こうで木崎が煙草を指ではじき、海面へ目を細めていた。
「おーい、雲賀兄妹。そろそろ船内案内の時間だぞー」
「木崎さん、煙草吸ってるとサキに怒られますよ」
「む……それは避けたいな」
軽口。 穏やかな時間。
――だが、平穏は長く続かなかった。
◆ ◆ ◆
警告音が船内に短く響いた。
――「乗組員は、冷却整備区画を確認してください……」
途中で途切れ、ノイズが走る。
「ただ事じゃないな」
木崎が立ち上がる。
と、そこへ青ざめた顔のクルーが駆けてきた。
「す、すみません! この先の区画は立入禁止です! 危険なので!」
「何かあったんですか?」
ハレルが聞くと、クルーは息をつきながら言った。
「冷却整備室の担当者と連絡がつかなくて……扉が、なぜか内側から閉まっているんです」
「内側から?」
ハレルと木崎は顔を見合わせた。
妙な胸騒ぎがする。
「様子を見に行きます。案内してくれませんか」
「え!?そ、そうですか……こ、こっちです!」
案内されて向かったのは、機械音が響く薄暗いメンテナンスデッキ。
湿った鉄の匂いが漂っていた。
「こ、ここです……」
分厚い金属扉。
クルーが万力のように押してもびくともしない。
「鍵じゃない……何かで塞がれてるんだ」
木崎が扉を叩く。
反応はない。
「俺が押してみます」
ハレルは扉に肩を当て、深く息を吸った。
「無理するなよ!」
「大丈夫」
三度目の衝撃で――
ガンッ!!
扉がわずかに開き、大きなケースが中で倒れた音が響く。
「どかされた……!」
ハレルと木崎が力を合わせ、隙間を広げた。
冷たい空気が流れ出す。
そして――その中心に、ひとりの人影。
「……っ!」
青白い照明に照らされた床。
横たわるのは制服姿のクルー。
左胸のプレートには――
榊 良太(さかき・りょうた) と刻まれていた。
「……死んでるのか……?」
木崎が膝を折り、確認する。
ハレルは視線を胸部へ。
円形に黒く焼け焦げた“穴”。
(これは……冷却設備で事故、なんてレベルじゃない)
表面の炭化の広がり。
貫通の深さ。
――まるで、“異世界の熱刃魔術” の跡。
だがそれを口にしていいのか迷う。
木崎が眉を寄せる。
「扉は内側から塞がれていた。つまり完全な密室。
犯人は、どうやって出入りした……?」
(……手口が、異世界のそれに近い。
でも、“転移者の犯罪”なんて言葉、まだ誰も知らない)
ハレルは喉をひりつかせながら息をつく。
(この部屋で何が……?)
そのとき、懐のスマホがふるえた。
《リオ:通信不安定。そっちは平気か?》
「リオ……!」
ハレルが返信しようとした瞬間、画面がノイズで乱れ、通信が途切れた。
◆ ◆ ◆
■異世界・王都イルダ近海 絶海の孤島
風が荒々しく海面を撫でる。
王都イルダ近海にそびえる絶海の城―― 《ゼルドア要塞城》。
王国軍・警備局・魔術研究局の若手たちが年に一度集まる、巨大な合同訓練施設だ。
城内にはさまざまな階級と役割の人々が行き交う。
剣を肩に担いだ兵士たち。
魔術式の帳簿を抱えた研究員。
大鍋を運ぶ食事係の女性たち。
白衣の医療班がストレッチャーを押しながら走る。
遠征用の荷物を抱えた新人兵たちが元気に挨拶をしていく。
その喧噪を抜け、石階段を上った最上階――
リオの訓練室だけが薄い静寂に包まれていた。
リオは窓際でひとり、腕輪に埋め込まれた観測鍵の欠片を見つめていた。
(……不気味なくらい、反応が弱い。
境界が揺れているせいなのか)
廊下の向こうでは訓練開始の号令が響き、
兵士たちが掛け声を上げて走り抜けていく。
捕縛術の練習場からは魔術光の炸裂音が上がっていた。
そこへアデルが入ってくる。
「リオ、準備はいいか。今日は捕縛魔術の実践だ」
リオは振り向き、柔らかく微笑んだ。
「もちろん。アデルの指導は分かりやすいから。」
「よ、よせ……。
だが、今年は厳しいぞ。お前も“任務持ち”だからな」
アデルはリオの肩に手を置き、声を潜めた。
「ハレルたちとは連絡が取れているか?」
「……少しだけ。境界が不安定で、まったく安定しない。」
「そうか。なら――油断するなよ」
リオはうなずく。
胸の奥に、じっとした痛みが生まれた。
(ハレル……。向こう側で、無事でいてくれ)
まるでその想いに応えるように、腕輪がかすかに脈打った。
だが、その理由に気づくのは――もっと後のことになる。
◆ ◆ ◆
■現実世界・《オルフェウス》号 冷却整備室
榊の遺体を前に、ハレルは拳を握りしめた。
(密室……焦げ跡……。 こんな状況、ただの事故で済むはずがない)
木崎が低くつぶやく。
「おそらく乗客・乗員の中に犯人がいる。
この船が“閉じられた空間”である以上、逃げられはしない」
「……木崎さん」
ハレルは静かに言った。
「この事件、ただの殺人じゃない気がします。
なにか……もっと大きなものの始まりかもしれない」
胸元のネックレスが、かすかな砂色の光を放った。
境界の揺れは確かに続いている。
そしてその揺れこそが、
もう一つの世界でも何かが起きようとしている前触れ
だと、ハレルはまだ知らなかった。