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ユカリが狼狽えるのはさほど珍しくもないが、グリュエーが見てきた中でもかなり激しい狼狽えぶりだ。
アイモールの街がちらほら目覚め始め、一日の始まりを嘉する輝かしい朝日と幸を謳う小鳥の囀りが城壁の向こうからやってくる。染み一つない洗い立ての朝早く、昨夜から世話になっている宿屋の手狭な部屋の寝台で、グリュエーは足を延ばして壁に背凭れし、寝ぼけ眼を擦る。
昨晩の出来事をソラマリアが淡々と報告していた。皆が眠っている間に、また一枚の封印を回収したのだ。その一連の状況から推察するに、ユカリは魔導書の気配を察知できなくなっている。
ユカリはずっと起きていたらしく、まるで世界の終わりまで磔になることが決まったかのように青褪めた顔で寝台の縁に座り込んでいた。
「昨夜、丘で初めて気づいたんだね?」とベルニージュが疑問を呈する。ユカリは小さく頷く。「気配を感知できないのは封印だけ? これはどう?」
ベルニージュが背嚢から魔導書の一冊『七つの災厄と英雄の書』を取り出す。ユカリは受け入れ難い現実を拒むように首を横に振る。
「魔導書の気配を感じないことこそが自然なのですから、気づかなくとも無理からぬことですわ」とレモニカが励ます。
「魔導書の探し方も考えなければならないな」ソラマリアはまるで今にも魔導書が現れるではないかと危ぶむように、蓋の少し開いた窓から通りに向けて鋭い視線を投げかけている。「今まで封印は魔法少女狩猟団として向こうからやって来たが、これからはそうとも限らない」
「それがさっき言っていたかわる者だね?」と曇った頭の中を磨くようにグリュエーが繰り返す。「魔法少女の魔導書を奪っていった、使い魔たちを解放する自称魔法少女」
「そうだ」ソラマリアは外に視線を投げかけたまま答える。「昨夜見つけた観る者のように、我々からも狩猟団からも逃げようとする者は他にもいるのだろう。ユカリの感知能力に頼れないのだとすれば、我々も積極的に情報収集する必要がある」
皆が一様に、判事の裁定を聞き逃すまいとする罪人のように沈黙する。ユカリが魔導書を得てきた旅のほぼ全てを知っており、かつ救済機構を間近で見てきたグリュエーにはその理由がよく分かった。救済機構のような巨大組織でも魔導書を得るまでに、その何百倍、何千倍もの魔法道具を収集しているのだ。個人の冒険者が一生をかけても魔導書一つ得られるとは限らず、得たとしても本物かどうか分からないのが常だ。ユカリが数十の魔導書を収集できた奇跡のほとんどは魔導書の気配を感知する能力に依っている。
「これまでの魔導書に比べれば」勝利の報せを携えた使者のようにレモニカは明るい声で切り出す。「使い魔たちは目立ちますわ。情報収集も容易でしょう。それほど悲観すべきこととは思えません」
「そうだね」とベルニージュが同意するのは、グリュエーには少し意外に感じられた。「何より救済機構が完成目前まで集めてたのがその証左だよ」
ユカリがぽつりと呟く。
「でもその後は――」
「機構だ」と簡潔に発したのはソラマリアだ。
皆が荷物をまとめる中、身軽なグリュエーは窓に駆け寄り、隙間から外を覗き込む。魔法少女狩猟団の使い魔たちは僧兵らしい格好などしていない。
果たしてグリュエーの想像通り、深い谷底に蟠る暗闇の如き黒衣に燃え盛る炎の刺繍を施された派手な身なりの僧兵たちが次々に物陰から現れていた。幾人かは既に宿に突入している。
最善の選択ではないはずだが、グリュエーは思わず窓から飛び出してしまった。加護官たちは入念な準備をしていたはずだ。しかしそれはグリュエーを生きたまま捕まえるための準備であり、立ちはだかる者たちを確実に排除する準備だ。ならば不測の事態、奪還すべき人物が単独で逃走する事態に対応するのは困難を極めるはずだ。
頭の中で言語化していたわけではないが、グリュエーはそのようなことを考え、魂を分けた風と共に空へと舞い上がり、それでいて加護官たちに見失われない高度で城塞都市の屋根を眼下に飛び去る。
「ねえ、グリュエー? これが最善だったと思う?」とグリュエーは風のグリュエーに語り掛ける。すると耳のそばで唸る風の音が言葉を紡ぐ。「どうかな? 冷静になって考えてみると、結局ユカリたちと合流する時が彼らにとっての狙い目だからあまり意味がなかったかも」「ああ、そっか。でも既にユビスを確保されてると思うんだよね。この行動でユカリたちがユビスを取り返しやすくなるはず」「確かに。その点では悪くない判断だね。でもきっと後でユカリが怒るよ」「甘いね、グリュエー。ユカリは恩を感じると強く出られないんだよ。……止まって」
グリュエーは風を受けた帆のように服を膨らませ、はためかせながら振り返る。幾人かの加護官たちが飢えた鼠のように屋根を伝って追ってきているのが見えた。
「どうかした?」「チェスタがいない」「そういや、そうだ。加護官たちはあいつが率いてたね」「何か読み間違えてるかも。一旦身を隠そう」
その時、胸を突き刺すような悲鳴が地上から聞こえ、グリュエーはグリュエーに命じられるまでもなくグリュエーの体を運び去る。
降り立った路地裏には巨大な四足の獣、全身に色とりどりの宝石を鏤めた猫のような怪物がいた。虎のように大きいが、猫のようにしなやかなのだ。そしてそばには倒れ伏す三人の加護官。傍らには悲鳴の主らしき、グリュエーと齢の近い利発そうな少女がいた。線の細い出で立ちながらその不安げな瞳の奥底には力と夢が漲っている。
少女は座り込み、巨大な宝石猫――何やら滑り気を帯びている――を見上げている。
「こっちへ来て。逃げよう。食べられちゃうよ」とグリュエーが声をかけると、少女はびくりと身を震わせ、振り返り、首を横に振る。
「違うの。この子は、テサちゃんで。突然、変身して」
その時、「いたぞ! あそこだ!」と不用意に叫んだのはグリュエーを追ってきたらしい加護官だ。
途端に宝石猫は少女を咥えて背中に乗せ、踵を返して走り去る。グリュエーもまた風に背中を押させて追いかける。
「封印だよね?」「間違いないね」「あの子の猫に憑りついて、本性の姿だっけ? に変身したんだ」「ぬめぬめしてる」「蛙かな?」「鰻かも」
宝石猫は素早く、軽い身のこなしで裏路地を走り抜けていくが、そのために特別な魔術を使っている様子はなかった。グリュエーもまた大股で跳躍し、離されることなく追跡し、しかし加護官たちは置き去りにする。
「札を剥がせるかな?」「そんなに魂を割いたら本体が置いてかれちゃうよ」「じゃあほんの少しだけ割いて、札の場所だけ見極めよう」「了解。……尾の付け根」
グリュエーは速度を上げ、再び大地から解き放たれ、宝石猫の尻尾を掴もうと追いすがる。札の位置を見定め、あと少しというところで……。
「駄目ええええ!」と叫びながら宝石猫の背中から少女が、鼠を見つけた猫のように飛び掛かってきた。
何とか受け止めつつも姿勢は崩れ、縺れ合いながら裏路地を転がる。あちこち打って、擦って、傷だらけになった。
「危ないよ! 何するの!」とグリュエーもたまらず声を荒げる。
「テサを殺さないで!」
戻ってきたテサこと魔性の猫が少女に体を擦りつけるように擦り寄る。
「殺さないよ! グリュエーはむしろ……」
グリュエーの言葉が枯れ、視線が釘付けになる。路地の先からこちらに歩いて来る男がいた。見覚えのない顔だが、こちらを真っ直ぐに見つめ、躊躇のない足取りだ。
「誰か来る」とグリュエーは呟く。「あの存在感の無い顔はたぶんチェスタだ」
「あれは相当の才ある魔術師だな。私には分かる」と宝石猫が親しい友に相槌でも打つように話す。
グリュエーは責めるように猫を睨みつける。
「グリュエーも君も捕まっちゃうよ。せめてこの子に猫を返してあげなよ」
「何だ。弱気だな。君にも確実に才能があるぞ。私が引き出してやろう。一時的にだが、逃げ果せるくらいはできるはずだ」
一体何を言っているのか、と言い返す前に宝石猫は頷く。
「さあ、できた。私たちを連れて逃げてくれ」
使い魔というのは本性の姿になっている時、あらゆる呪文や媒介、儀式など、必要な手続きを無視して魔術を行使できるのだと説明を受けてはいたが、あまりにも実感に欠けた。
とにかくできる限りのことをやるだけだ。グリュエーはいつもの通りに風を纏おうとしたが、巻き起こったのは竜巻だった。耳を聾する轟音で猛り、大地に繋ぎ止められていない物全てを空へと打ち上げる。その身を引き裂かんばかりの強風はグリュエーと少女、宝石猫の体をも巻き上げ、彼方へと弾き飛ばした。
気が付くと城塞都市の端まで吹き飛ばされていた。高い城壁のそばの狭い路地だ。あるいはただの隙間かもしれない。迫りくるような壁と庇、濃い影に身が隠されている。人通りもなく、空はほとんど見えない。
どうやって無事に着地できたのかも覚えていない。少しの間、気を失っていたようだが、グリュエーの魂を抱えた竜巻は変わらず街の中で暴れていた。きちんと戻ってくるのだろうか、と少し心配になる。
使い魔に憑りつかれた猫テサの飼い主は呆然として地面に座り込んでいた。そのそばで宝石猫は、仔にそうするように慈しみの眼差しを少女に向けている。
「さっきの話だけど、グリュエーはテサを元に戻したいだけだよ。元の、普通の猫に」
「いらない」と少女は頑なに声高に答える。
「いらないってどうして? 本当のテサの心は体の中に閉じ込められてるんだよ?」
「私たちのことは放っておいて」
「尻尾の付け根に封印が貼ってあるでしょ? それを剥がせば元に戻るんだよ。簡単でしょ?」
「駄目。封印だかは諦めて」
「困るでしょ? そんなに大きいと」頑なな少女から使い魔の方へグリュエーは矛先を変える。「……ねえ、君の方はどういうつもりなの?」
「ただ、放っておけないんだ。この子を」と宝石猫は答える。
「君が得た自由は尊重したいところだけど、グリュエーたちも魔導書を放ってはおけない。それに、その子にはテサがいるんだから」
少女と猫は沈黙で答える。埒が明かない。誰の同意も得られなかったがやることは変わらない。不意打ちするように――妖術もまた手続きを必要としない――グリュエーは慎重に調整した旋風を放ち、尻尾の付け根の封印を剥がした。使い魔から解放された巨体はみるみる縮み、一匹の猫の死体に変わった。
二人の少女は悲嘆に暮れ、ずっと泣いていた。いつの間にか竜巻は消え、日は大きく傾いて、アイモールの街を赤く染め上げた頃、ようやくユカリたちに見出された。
猫を丘の芝地に埋葬するのも、少女を家へ送り届けるのも誰かがやってくれて、誰がやってくれたのかさえグリュエーには分からなかった。
ただ、城壁近くの裏路地でずっとそばにいてくれたのはユカリだった。
「ねえ、ユカリ。今更魔導書収集を諦めたりしないよね?」
「うん。それは、もちろん」言葉に反して、ユカリの声色は弱々しかった。
「でもさ。仮に諦めるとしても、グリュエーはずっとユカリのそばにいるよ。旅の始まりから、旅が終わっても、ずっと」そう言ってから照れ隠しに付け加える。「救済機構から逃げる以外、他にすることもないしね」
「……うん」ユカリは控えめながら笑顔を取り戻す。「グリュエー、ありがとう」