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時計の針は七時を刻んでいる。夕食を取り終えた美蘭は、自室ではあるものの上品にハンカチで口元を拭う。
今晩は雨がひどい。この地域にも大雨警戒アラートが出たようで、窓越しでも怪獣のいびきがよく聞こえる。
これは彼も予定より遅れてくるかもしれない。実際スマートフォンで確認するに、電車のような交通機関はかなりの数が運休見直し。外からはクラクションもたびたび聞こえるため、おそらくは渋滞まで発生している。
このままこの場に来れず、今日が終わるのではないか。どこかで事故に巻き込まれ、そのまま死に至るのではないか。歩いてここに行こうとし、暴風で傘が飛ばされ、そうして凍死。しているかもしれないし、どうでもいいし、そうであってほしい。
しかし、現実は非情であった? いや、これもまたいい。
私はこの家の扉が、外から誰かによって開かれるのを実に久しぶりに見た。真実を偽っていたのは向こうだというのに、それはまるで恩返しをしようとしていた鶴の心を覗こうとするような。どこか童話的に醜く、単純であった。
激しく息を切らした晃一は、言葉一つ発する余裕すらないようだ。雨の塊になったかの如く、濡れしみ込んだその姿は、何の事情も知らぬのならば、銃撃をしのいで帰還した英雄にも見える。
私は決闘を申し込もうと、手袋代わりにタオルを投げた。彼はそれに礼もありがたがることもせず、ただ必死にそれを使った。
この雨の中、走ってまでして時間に間に合わせようとした彼へ、私は敬意を払うべきなのかもしれないが、残念微笑ましい事にその気は微塵とてない。英雄も乞食に慣れ果てたか。もう私の愛したあなたはいないのだ。どこかへ消えたのか、端から偶像でしかなかったのか。
彼は髪を拭くとタオルを返してきた。まだ体や服は変わらず濡れたままであったが、彼としてはそこへの不安など大したものではなく、もっと早くに解消したい何かがあるようだ。まあ、それが何かはもう明白だが。念のためだ、決めつけはよしておこう。
タオルを椅子に敷くと、そこに彼が座った。私も向かいに座った。いつもの夕食の座り方だが、もはやいつもには思えなかった。
「美蘭。俺は……!」「晃一。ひさしぶり」
「え、ああ。ひさしぶり」
この殺伐とした空気が今はただ心地よい。
二人を祝福するように雨垂れは激しく拍手を打ち付けていた。