テラーノベル
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医療刑務所のベッドに横たわる直樹は
一命を取り留めたものの、脳の機能に重大な損傷を負っていた。
彼は今、目の前に並べられたリンゴの数さえ数えることができない。
「1」という概念も、「1円」という価値も、彼の世界からは完全に消滅したのだ。
私は、彼がかつて私を支配するために使っていた
「あの家計簿」の最後の白紙のページを切り取り、封筒に入れた。
添えたのは、父の万年筆で書いた一言だけだ。
『計算、終了。』
それを面会室の担当者に託し、私はルーツ・ガーデンへと戻った。
そこでは、陽太が中心となって、施設で暮らす子供たちと一緒に「一円募金プロジェクト」を始めていた。
大きな募金箱ではなく、子供たちが自分たちで色を塗った小さな瓶。
そこに、一日一円、誰かのために「ありがとう」の気持ちを込めて貯めていくのだという。
「ママ、見て! こんなに集まったよ!」
陽太が見せてくれた瓶の中には、キラキラと輝く一円玉が詰まっていた。
「一円じゃ何も買えないって言う子もいるけど、僕たちが集めた一円は、新しいお友達の教科書になるんだよ。これって、すごく大きなことだよね!」
陽太の言葉に、松本さんが教えてくれた父の言葉が重なる。
一円を愛に使うこと。誰かの人生を黒字にすること。
直樹が一生かけても理解できなかったその「真理」を
陽太はたった10歳で、自分自身の力で見つけ出していた。
私は陽太の頭を撫でながら、顔を綻ばせた。
その頃
医療刑務所の直樹の元に、私の手紙が届いた。
彼は、白紙のページと『計算、終了。』という文字を見つめた。
けれど、今の彼にはその文字が何を意味するのか
その余白がどれほどの絶望を表しているのか、理解することすらできない。
彼は、ただの「肉の塊」として、自分が壊した世界の片隅で、一円の思考も持たずに生き永らえる。
かつて彼が私に強いた「出口のない絶望」を
今度は彼自身が、永遠という名の無機質な時間の中で味わい続けるのだ。
「……終わったわ。本当の意味で」
私は、父の万年筆を愛おしく撫でた。
数字の呪縛から解き放たれ、私は今、人生で最も豊かな「無」の中にいる。
【残り26日】
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