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『初めましての教室で』
春の匂いがまだ、制服の裾にしがみついていた。
「……広い」
教室のドアを開けた瞬間、姫那はそう思った。
都会の高校は、地元の中学よりもずっと賑やかで、どこか騒がしい。
人の数、音の量、知らない顔、知らない空気。
その全部に、胸がぎゅっとなる。
隅っこの窓際の席に座って、カバンを机の中に押し込む。
スマホを開いて通知のない画面を見つめていたら、
どこかから、ふと、声がした。
「ここ、隣いい?」
顔を上げると、そこには――
少しだけ髪の長い男の子が立っていた。
穏やかな目をしていた。
その目に、姫那は言葉を失った。
「……うん」
かすかに頷くと、彼は「ありがとう」と言って、
その隣の席に、静かに腰を下ろした。
黒板に「1年B組」の文字。
はじめましての教室で、
姫那は、翔と出会った。
教室の中はざわざわとしていた。
新しいクラス、新しい顔。
自己紹介の前の、沈黙と緊張が入り混じった時間。
そんな中、翔は隣で静かに教科書をめくっていた。
姫那はそっと、その横顔を盗み見た。
淡い光に照らされたまつげが長い。
口元は真っ直ぐで、何を考えているか分からない表情。
──なんか、落ち着いてるな。
この空気の中で、こんなふうに静かでいられるのって、少しすごい。
「あのさ」
突然、翔の声がした。
姫那はびくっとして、反射的に顔を上げる。
「教科書、これで合ってるよね?」
翔が手にしていたのは、1年の国語の教科書。
姫那は慌てて、自分のカバンを開けて、同じものを引っ張り出した。
「……うん、同じ」
「よかった。なんか不安でさ、初日って」
翔が、ふっと笑った。
その笑顔が、姫那の胸を、少しだけゆるませた。
さっきまでの緊張が、ふっと溶けるような気がした。
「ありがとう。姫那さん……って合ってる? 名札、見えたから」
「……うん、あってる。翔くん、だよね」
「うん」
二人とも、それ以上何も言わなかった。
でも、なぜかその沈黙は心地よかった。
──翔くん。
名前を口に出した瞬間、何かが変わった気がした。
春の風が、窓からそっと吹き込んできた。
教室のざわめきが少し大きくなり、担任の先生が前に立った。
「それじゃあ、みんな自己紹介を始めようか。」
順番に名前と趣味を言っていく教室の中で、翔の番がやってきた。
翔は立ち上がり、軽く頭を下げてからゆっくりと話し始めた。
「僕は翔。趣味は……読書と、空を眺めることかな。」
教室の中に、ささやかなざわめきが起こった。
誰もが知っているような趣味じゃないけど、どこか引き込まれるような言葉だった。
「読書は、小説とか、哲学の本を読むことが多い。空を眺めるのは、なんとなく気分転換になるから。」
翔はそのまま席に戻り、姫那はその言葉をぼんやりと反芻していた。
「空を眺めること……なんだか、少し寂しそう。」
教室の窓の外、青空が広がっている。
その空を翔はどんな気持ちで見ているんだろう。
姫那は、ほんの少しだけ、翔に近づけた気がした。
翔の自己紹介が終わり、次は姫那の番だった。
胸がドキドキして、声が震えそうになる。
「えっと……私は姫那です。」
クラスの視線がじっと自分に向けられているのがわかって、居たたまれない気持ちに襲われた。
「趣味は……本を読むことと、音楽を聴くことです。あまり話すのは得意じゃないけど、よろしくお願いします。」
言い終わると、姫那は急いで席に戻った。
頬が熱くて、何度も深呼吸をした。
心の中では、もっと上手に話せたらいいのにって思いながらも、これが今の自分の精一杯だった。
放課後の教室は、朝とはまったく違う空気だった。
ざわめきがなくなり、窓から差し込む夕日のオレンジ色が机の上をやさしく照らしている。
姫那はカバンを片付けながら、ふと思い出して、隣の席を見た。
翔はまだ本を読んでいた。
そんなに読書が好きなんだな、と思いながら、思い切って声をかけてみる。
「翔くん、今日は……ありがとう。」
翔は顔を上げて、ゆっくりと微笑んだ。
「こちらこそ、話せてよかったよ。」
言葉は少なかったけど、その優しさに姫那の心は少しだけ温かくなった。
「また、明日も……よろしくね。」
翔は静かに頷いた。
夕日が二人の間に静かに沈んでいく。
何も急がなくていい、ただ隣にいる時間が少しずつ増えていけばいい。
そんな気持ちで、姫那は教室を後にした。
廊下を歩く足音が遠ざかり、教室には夕陽のオレンジ色だけが残っていた。
翔はカバンを背負いながら、姫那の方をちらりと見た。
彼女はまだ何か言いたそうに、少しだけ顔を上げている。
「ねえ……」
翔がそっと声をかける。
「放課後、一緒に帰らない?」
姫那の心臓が跳ねた。
こんな突然の誘いに、体がうまく反応しなかった。
「え……? う、うん、いいよ」
声が小さくなってしまったけど、嬉しい気持ちは隠せなかった。
二人はゆっくり廊下を歩き出す。
話さなくてもいい。静かな時間が、逆に安心だった。
時折、翔が小さな笑みを浮かべるたびに、姫那は胸の奥がぽっと温かくなる。
歩くスピードも、呼吸のリズムも、自然と合っていくようだった。
「ありがとう、今日」
姫那がぽつりと言うと、翔は少し照れたように笑った。
「こちらこそ……また明日」
都会の夕暮れは、二人の秘密の時間になった。