テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
それは祈りというよりも、もっと切実で、逃げ場のない”お願い”だった。春がその盛りを終え、散り急ぐ花びらが地面を淡い色に染め上げる頃。外れにある小さな家で、ひとりの少女が糸の切れた人形のように倒れた。
名はエルナ。まだ九つになったばかりの、野花のように可憐な少女。先月までは、ソラスが行商の道を下りて村へ来るたび、誰よりも先に駆け寄ってきては、その銀色の髪を不思議そうに、けれど嬉しそうに見上げていた子だ。
病は唐突で、そして暴力的だった。小さな身体を焼かんとする高熱。時折襲う痙攣が、彼女から言葉と意識を奪っていく。苦しげに上下する胸の動きは浅く、呼吸は今にも途切れそうな蝋燭の火のようだった。往診に来た近隣の町医者は、脂汗を拭うことも忘れ、力なく首を振った。
「……手遅れだ。進行が深すぎる」
その宣告に、母親が膝から崩れ落ちる。床を叩く鈍い音が、絶望の合図のように響く。集まった村人たちは、行き場のない不安を互いの顔に見出し、そして最後に――部屋の隅に佇むソラスへと視線を吸い寄せた。彼女は、そこにいた。窓から差し込む午後の光が、彼女の輪郭を白く浮かび上がらせている。
その場に満ちる無言の重圧と、母親の悲鳴のような泣き声が、ソラスの背中を押した。少女の汗ばんだ額に、ソラスが白く細い指をそっと重ねた瞬間。部屋の隅々の影が、まるで意思を持った黒い水のように、音もなく彼女の手元へと集まる。それは今までになく濃密で、底知れぬ深淵を覗き込むような感覚を伴い、ソラス自身、背筋が凍るような違和感を覚えた。命の理に、土足で踏み入る恐ろしさ。
それでも、彼女は手を離さなかった。離せば、この灯火が消えてしまうことを知っていたから。やがて、荒れ狂っていた熱が嘘のように引き、呼吸が穏やかなリズムを取り戻す。長い夢から覚めた面持ちで、エルナは、ゆっくり瞼を持ち上げた。
「……ソラス、さん?」
その掠れた、けれど確かな声を聞いた瞬間、母親は獣のような声を上げて泣き崩れた。村人たちの間から、歓声というよりは安堵の溜息が漏れ、それは瞬く間に広がり、誰もが目の前の奇跡を信じて疑わなかった。
その夜、塔へ戻ったソラスは、どうしても眠ることができなかった。胸の奥が、静かに、けれど絶え間なく痛む。魔力は涸れていない。身体も正常だ。それなのに、自分の中の大切な何かが、音もなく零れ落ちてしまったような喪失感だけが残っていた。
⬛︎
翌日、エルナは歩けなかった。足が動かないのではない。動かそうとする意思が、そこまで届かない様子だった。町医者は少女の足を診るや、困惑した雰囲気で眉をひそめた。
「神経が、空白になっている」
「空白……?」
「壊れたというより……まるで最初からそこには何もなかったかのように、綺麗に消えている」
少女は、痛みを訴えなかった。自分の足が動かないという事実に、涙を流すこともしなかった。ただ、ベッドの上で膝を抱え、ぼんやりと窓の外を見ているだけだ。そこには初夏の蝶が舞っていたが、彼女の視線がそれを追うことはない。
「エルナ?」
呼びかけても、反応は水底から泡が上ってくるように遅い。振り返って見せる笑顔には、以前のような体温が感じられなかった。――まるで、精巧に作られた人形の笑みを皆に思わせた。
数日後、やつれた顔をした母親が、震える声でソラスに告げた。
「あの子、夢を見なくなったと言うんです。夜が来ると、ただ暗くなって、気づくと朝になっているって」
ソラスは、初めて言葉を失った。エルナは生きている。死の淵からは戻ってきた。それなのに。彼女の中から、明日を夢見る力や、未来へ向かって駆け出そうとする衝動だけが、ごっそりと抜け落ちていた。町医者は、静かに、だが決定的な事実を口にした。
「生きてはいる。だが……この子はもう、何かになろうとはしないでしょう。望むことも、悔やむこともなく、ただ淡々と生きていく」
その言葉が、鋭い棘となってソラスの胸に突き刺さる。前に剣の才能を与えた青年の時と似ているが、より大きな代償。村は、一瞬だけ沈黙した。不気味なほどの静けさが場を支配した。そして――次の瞬間、誰かがその静寂を破った。
「……でも、助かったんだ」
それは、自分自身を納得させるような響きだった。別の声がそれに続く。
「そうだ、死ぬよりずっといい」
「歩けなくたって、生きてさえいれば、それでいいじゃないか」
たくさんの視線が、一斉にソラスに集まる。そこに彼女を責める色はなかった。むしろ、ねっとりとした期待と依存の色が濃くなっていた。”代償”があろうとも、命さえあればいい。次も、頼める。次も、この娘は救ってくれる。
塔へ戻る森の入り口で、ソラスの足が止まった。先を歩いていた黒猫が、振り返りもせずに歩いていく。春の終わりの湿った泥に、その小さな足跡だけが、くっきりと残酷なほど鮮明に残った。
命を助けられて、良かったんだ。
そう思おうとした。心の中で何度も繰り返した。だが、胸の奥に広がった空白は、風が吹き抜けるだけで、何の重みも感じられなかった。