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𒄆𒈞𒋨 ጓደኛህ ነኝ 𒀱 𒂝
#オリジナルストーリー
その日は、なんとなくついていなかった。
レジはやたら混むし、店長には「動きが遅い」と言われるし、おまけに帰り際に床で軽く滑って、誰にも見られていないのに一人で恥ずかしい思いをした。
「……なんだかなぁ」
朝倉恒一は、バイト先のコンビニの袋をぶら下げながら夜道を歩いていた。雨は降っているのか止みかけているのか分からないくらいで、じっとりと空気にくっついてくる。
袋の中には、おにぎりと安い缶チューハイ。それにーーなぜかキャットフードが入っている。
「いや、ほんとなんで買ったんだおれ……」
猫なんて飼っていない。というか、アパートはペット禁止だ。怒られたら、普通に困る。
それでも買ってしまった理由は、一応ある。
帰り道の途中にある駐車場の裏。そこにここ数日、黒い猫がいる。
見た目はただの野良猫のはずなのに、なんとなく気になっていた。
今日もいるのか、と軽い気持ちで覗いた瞬間、恒一は足を止めた。
「……あ、いた」
駐車場を囲うブロックの上に、黒猫が一匹。
夜に溶けそうなくらい黒いのに、目だけがやけにはっきりしている。暗いのに、ちゃんとこっちを見ているのが分かる。
「お前、毎日いるな」
話しかけながらしゃがみ込むと、猫は逃げなかった。ただじっと見ている。
その様子が、なんというかーー妙に落ち着いている。警戒していないわけじゃないのに、慌てる感じがない。
「なんか、ちょっと偉そうじゃない?」
そう言いながら袋からキャットフードを出して地面に置くと、猫はすぐには食べなかった。一歩近づいて、匂いを嗅ぐ。もう一回嗅ぐ。
「いや、疑いすぎだろ」
ようやく食べ始めた動きも、どこかゆっくりで丁寧だ。がつがつしていない。
食べ終わると、猫は後ろ足で左耳のあたりを軽く掻いた。
その仕草を見て、恒一は少し首を傾げた。
「……なんかお前、人間っぽくない?」
もちろん返事はない。ただ耳がぴくっと動いた気がした。
猫をじっと見る。
しばらくして、恒一はぽつりと口に出した。
「……来るか?」
言った瞬間、自分で(ダメだろそれ)と思う。ペット禁止だし、責任なんて取れるのか分からない。
それでも猫はゆっくり顔を上げて、小さく鳴いた。
その声が思ったより弱くて、少しだけ頼りなく聞こえた。
気づけば、恒一はその体を抱き上げていた。
「……一晩だけだからな。ほんとに」
猫は軽かった。びっくりするくらい軽くて、腕の中で小さく震えているのが分かる。
なんとなく、放っておけなかった。
部屋に戻っても、猫は騒がなかった。むしろ落ち着いている。
「ほんとに初めてか?」
タオルで軽く拭いてやると、おとなしくしている。ただ顔に手を近づけると、すっと避けた。
「顔はダメなんだ。意外とこだわるな」
水を置くと、やっぱりすぐには飲まない。一度匂いを嗅いでから、やっと口をつける。
「疑い深いなぁ……」
思わず笑うと、猫は何も言わずに飲み続ける。その様子がなんだか妙にしっかりしていて、恒一は少し安心した。
おにぎりを食べ終えて、ぼんやり座る。
雨の音だけが、静かに部屋に広がっていた。
猫はテーブルの向こうで丸くなりながら、じっとこっちを見ている。
「そんな見なくてもいいだろ……」
言っても目を逸らさない。
でも、その視線は嫌じゃなかった。
むしろ少し落ち着く。誰かがいるだけで、部屋の空気が変わるんだな、とふと思う。
そんな感覚は、ずいぶん久しぶりだった。
ふいにインターホンが鳴った。
「え?」
時計を見ると、もう十一時を過ぎている。こんな時間に来客なんて、心当たりはない。
そっと覗き穴を見てみる。
女の人が立っていた。
黒い服に長い髪。夜の中に溶けそうな雰囲気なのに、目だけがやけに目立つ。
ドアを少しだけ開ける。
「……どちら様ですか」
女はにこっと笑った。
「こんばんは」
「はあ……」
「拾ったでしょ?」
「……は?」
「黒い子」
思わず言葉に詰まる。
「知り合いの猫ですか?」
「知り合いっていうか」
少し考えてから、女は肩をすくめた。
「まあ、わたしみたいなもの」
「いや、意味分からないんですけど」
「だよね」
あっさり認める。
「とりあえず入れて。雨、冷たい」
「いや、それはーー」
そのとき、部屋の奥で猫が鳴いた。
女の表情がふっと変わる。安心したような、少しだけほっとした顔。
「よかった……まだいる」
その言い方に、恒一は引っかかりを覚えた。
「……何の話ですか」
女は静かに言った。
「その子ね、”ラベル”がないの」
「ラベル?」
「名前とか。『これはこれ』って決めるやつ」
何を言っているのか分からない。でも、冗談には聞こえなかった。
「それがなくなっちゃったの」
「なくなるとどうなるんですか」
女はやさしいけど、どこか寂しそうに笑った。
「猫になりきれない」
その瞬間、猫がこちらを見た。
女も同じ方向を見る。
そしてーー
二人は、ほとんど同時に左耳のあたりに手をやった。
同じ場所。
同じ動き。
「……え?」
背中がぞくっとする。
女は軽く息をついて言った。
「だからさ」
その声は、さっきより静かだった。
「その猫、わたしなんだよね」
理解が追いつかない。
でも、猫と女の目が同じで、同じ温度でこっちを見ていた。
そのとき、部屋の中でばさっと音がした。
振り向くと、壁に貼ってあった紙が一枚、床に落ちている。
さっきまであったはずのものが、なくなっている。
「……え?」
ただの紙なのに、妙に胸がざわつく。
「助けて」
さっきまでの態度とは一変して、女は懇願するように言った。
「わたし……自分の名前なくしちゃった」
雨の音が、少し強くなる。
猫が小さく鳴く。
恒一はなにも言えなかった。
ただ、この夜が普通じゃないことだけは、はっきり分かっていた。
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