テラーノベル
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朝倉恒一は、人生で初めて”猫と女が同一人物”と言われた翌朝を迎えていた。
「……夢であってくれ」
起きて最初の言葉がそれだった。
おそるおそる部屋の中を見回すと、ベッドの横には黒猫がいて、部屋の隅には女が立っていた。
「おはよ」
普通にいた。当然のように挨拶してきた。
「いやいやいやいやいや」
恒一は布団の中で頭を抱えた。夢じゃない。完全に昨日の続きだ。
「なんで普通にいるの」
「ここにいるからだけど」
「帰るとかそういう発想はないの?」
「帰る場所ないし」
「なんでそんなサラッと重いこと言うの!?」
女ーーミヤは、勝手に冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいる。
「なに、これ。食べ物少な」
「人の生活を評価するな」
「これじゃ、生きていけないよ」
「昨日まで普通に生きてきたわ」
黒猫がその横で座って同じ方向を見ているのが、さらに腹立たしい。
「なんでお前も同意してるみたいな顔なんだ」
猫は当然答えない。ただ静かに座っている。
その落ち着き方が、逆におかしい。
状況をどう整理するか考えていると、スマホが震えた。
画面を見ると、知らない番号からの着信。
「……誰だ」
嫌な予感がして出るか迷ったが、とりあえず出てみる。
「もしもし」
「その猫、まだ持っていますよね」
いきなりそれだった。
「は?」
「保護対象です。逃げない方がいい」
「ちょっと待て、意味分からーー」
通話は一方的に切れた。
恒一はしばらくスマホを見つめたまま、固まっていた。
部屋の空気が変わる。
「……なんだ今の」
ミヤが顔を上げた。
「来るよ」
「誰が」
「ラベルを回収する人たち」
「言い方が怖いんだけど」
その直後、ドアの向こうで音がした。
ガチャ、とノブが動く。
鍵は閉めている。それでも、誰かが外から確かめるように何度も回している。
「ちょっと待て」
嫌な汗が出る。
もう一度、強くノブが動いた。
次の瞬間、ドアが内側に蹴り破られた。
木片が床に散る音がやけに大きく響く。
「うわああああ!?」
恒一は反射的に叫んだ。
入り口に立っていたのは、白い手袋をした男だった。スーツ姿で、場違いなくらい落ち着いている。
「対象確認」
低い声でそう言って、視線をまっすぐミヤに向けた。
「分類不能個体。採集する」
「勝手に人の部屋壊して何言ってんだ!」
怒鳴ってところで、男はまったく気にしていない様子だった。
次の瞬間、その距離が一気に詰まる。
あまりにも速くて、恒一は反応できなかった。
だが、その前にミヤが動いていた。
「ダメ」
短い声と同時に、男の腕が弾かれる。
何が起きたのか理解が追いつかない。ただ、ミヤの動きが普通じゃないことだけは分かる。
「恒一、離れて」
「え、いや、何が起きてーー」
「いいから!」
強い口調に押されて、恒一は数歩後ろへ下がった。
黒猫がその横をすり抜けて前に出る。
「お前もいくの!?」
男の手の中に、透明な輪のようなものが見えた。空気の歪みみたいに揺れている。
「ラベル採集、開始」
「だから何なんだよそれ!」
男がそれを振るう。
ミヤが体を横にずらして避ける。その動きはしなやかで、ほとんど音がしなかった。
そして、輪が床に触れた瞬間、そこにあった新聞紙が消えた。
「消えた!?」
「当たるとラベルが取られる」
「説明が雑すぎる!」
男が再び踏み込む。今度は恒一にも動きが見えたが、体がついていかない。
ミヤは距離を取りながら、テーブルを足で押して倒した。
「ちょっと待て、それおれのーー」
「あとでどうにかする!」
「ほんとに!?」
黒猫が机の上に飛び乗り、男の視界を遮るように横切る。
その一瞬の隙で、ミヤが窓へ走った。
「逃げるよ!」
「逃げるの!?」
「勝てないから!」
判断が早すぎる。
窓が開く。ここは二階だ。
「無理だろ!」
「大丈夫!」
「その自信どこから来るんだよ!」
背後にはもう男が接近している。考えている余裕はない。
恒一は半ばやけになって窓を飛び越えた。
落ちる、と思った瞬間、体がふわっと軽くなった。
「え?」
地面に着いたとき、衝撃はほとんどなかった。
「いまの何!?」
「あとで説明!」
黒猫も音もなく降りてくる。
三人で走り出した。
「なんでおれも走ってるんだ!?」
「仲間だから!」
「いつなった!?」
振り返ると、男が屋根の上にいた。
「速すぎるだろあいつ!」
「だから逃げるって言ったでしょ!」
「納得しかない!」
曲がり角をいくつも抜けて、ようやく人の気配がない路地に入る。
そこで足を止めたとき、恒一はようやく息をついた。
「はあ……はあ……」
心臓の音がうるさい。
さっきまでの出来事が、現実感を失っていく。
「……なんなんだよ、これ」
壁にもたれながらつぶやくと、ミヤが辺りを窺いながら言った。
「さっきの人、ラベルを採集してる」
「だからそのラベルって何なんだよ」
「名前とか役割とか、そういうの全部」
「全部ってどういうことだ……」
ミヤが少し考えてから答えた。
「それがなくなると、その人がその人じゃなくなる」
さっきまでの騒がしさが、急に遠くなる。
「それって……」
「うん」
ミヤは静かにうなずいた。
「わたしも、それがなくなりかけてる」
足元に黒猫が寄ってくる。
その目を見て、恒一は思った。
放っておけない。
理由はわからない。でも、目をそらしたらダメな気がした。
「……なあ」
「なに?」
「これ、逃げるの付き合う感じか?」
ミヤは少し驚いた顔をしてから、笑った。
「うん」
「……マジか」
恒一はため息をついた。
「……嫌じゃないのが一番困る」
ミヤが楽しそうに笑う。
その横で、黒猫が小さく鳴いた。
そして、耳をピンと立てた。
耳を澄ますと足音が高速で接近してきている。
三人はまた駆けだした。
気づけば恒一は、完全に面倒ごとの中に入っていた。
しかも、自分で選んで。
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