テラーノベル
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※戦争描写あり
レイラはルーケ党当主、イアン・ルーケの娘である。家族の祝福を浴びて生まれてきた。父のイアンは厳格でありながらも、娘の笑顔には驚くほど甘かった。彼の威厳ある声が屋敷中に響くときでさえ、レイラが駆け寄ってその裾を掴めば、いつの間にか声は柔らかくなった。
「お父さま、今日もお仕事?」
「そうだ。だが……その前に少しだけ絵でも描こうか。」
そんなやり取りが、日常のように繰り返されていた。
母は、庭の花を世話するのが好きな穏やかな人だった。レイラはよく母の隣で花の種を蒔き、泥で手を汚して叱られたものの、その叱り方でさえどこか優しく、温もりがあった。春には庭いっぱいにチューリップが咲いた。風にそよぐたびに、母の髪が光を受けて揺れる。レイラの目には、それがまるで天使のように見えていた。
家にはいつもパンの焼ける匂いと、父の部屋から漂う絵の具の香りが混じっていた。外ではまだ、内戦の影など微塵もなかった頃。街には笑い声が溢れ、市場では果物を売る声が元気よく響いていた。レイラは母の手を引いて、焼き菓子を買っては父へのお土産にした。
「また食べすぎるぞ。」
そう苦笑しながらも、父は結局その半分をレイラに譲るのだった。
その日々は、永遠に続くと思っていた。暖炉の火のように、静かで、確かで、温かかった。
だがあの日、爆弾が遠くで響いたとき、レイラは初めて“世界が壊れる音”を聞いたのだった。
その日を境に、父は構ってくれなくなった。いつも眉間に皺を寄せていて、すこし怖い顔をしている。なぜかは分からない。けれど、屋敷の空気が少しずつ変わっていくのを、幼心に察していた。使用人たちはいつもより声を潜め、笑顔を見せなくなった。母は窓辺に立つことが増え、外を見つめては何かを祈るように胸の前で手を組んでいた。
「お母さま、何を見ているの?」
レイラがそう尋ねると、母はゆっくりと振り返り、優しく微笑んだ。
「……空よ。あの空の向こうにいる人たちが、無事であるようにって。」
その言葉の意味を、当時のレイラは理解できなかった。ただ、母の声が少し震えていたことだけは覚えている。
夜になると、父は執務室にこもり、誰とも口をきかなくなった。机の上には見慣れない地図や報告書が山のように積まれていた。一度だけ、レイラが部屋に入ろうとすると、父は鋭い声で言った。
「入るな、レイラ!」
その声に、レイラは思わず立ちすくんだ。父が怒鳴る姿を見たのは、それが初めてだった。
寝室の隣の部屋から、父とその部下の声が聞こえてきた。
「このままでは持たないです。街の方も……。」
「わかっている。だがここまで来てしまったのなら退くわけにはいかない。」
途切れ途切れの言葉。何を話しているのか、レイラには分からなかった。ただ、母のすすり泣く音だけが、やけに鮮明に残っている。その日から、レイラの世界は色を失った。パンの香りもしなくなり、庭の花も枯れ、母の笑顔も消えた。空には黒い煙が立ちのぼり、遠くで爆音が響く。あの日聞いた“世界が壊れる音”は、もう幻ではなかった。
それから3年経ったある日。屋敷の外に黒い馬車が並んでいた。見慣れない兵士たちが門の前に立ち、家の中を出入りしている。
「お父さま、どうしたの? どこか行くの?」
イアンは娘の髪を撫でながら、静かに微笑んだ。
「少しだけ仕事だ。すぐ戻る。」
「約束だよ?」
「ああ、約束だ。」
それが、父と過ごした最後の朝だった。
数週間が経ち、街の様子が一変した。通りを歩けば人々は皆、怯えたように目を伏せ、誰もが噂話をひそひそと交わしている。市場は閉ざされ、掲示板には新聞が貼られていた。その端にレイラは見つけてしまったのだ。そこに記された、父の名前を。
“ルーケ党当主 イアン・ルーケ 国家反逆罪により拘束”
その一文を読み終えるより早く、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。手が震え、声が出なかった。 母はそれを見て、何も言わずにレイラを抱きしめた。その腕の力が、あまりにも弱かった。
家の扉は何度も叩かれた。見知らぬ兵士たちがやって来ては、書類や金品を持ち去っていった。屋敷の空気は重く、使用人たちもひとり、またひとりと姿を消していく。母はただ黙って、祈るように窓の外を見ていた。レイラは信じていた。お父さまは、きっと誤解されている。すぐに帰ってきてくれる。そう思い込みたかった。
だが、春が訪れる前の日。街の広場に、軍による裁判が開かれるという知らせが届いた。マリアは迷った末に、娘の手を握りしめて言った。
「レイラ……あの人を、見届けに行きましょう。」
広場には人々のざわめきが渦を巻いていた。壇上には、手枷をかけられた父の姿。誇り高く背筋を伸ばしていたが、その瞳の奥には深い疲れが滲んでいた。風が吹き抜けると、群衆の間にざわめきが走る。判事が告げる声が、冷たく響いた。
「イアン・ルーケ。国家に対する反逆の罪により、有罪とする。」
レイラはその瞬間、息を呑んだ。世界が再び、色を失った。何か叫ぼうとしたが、喉が凍りついたように声が出ない。母の腕が、彼女の肩を強く抱きしめる。その震えはレイラ自身よりも大きかった。父は群衆の中にレイラたちを見つけると、わずかに微笑んだ。それは、あの優しい父の微笑みと同じだった。
コメント
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戦争ってよくないね…。 子供が遭っていい目ではない