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家に帰ると、いつもは出かけている時間なのに母がいた。鏡に向かって化粧をしているようだった。
「ああ、帰ったの。おかえり」
こちらに背を向けたまま、母が言った。
「た、ただいま」
おもわずぎこちない返事になってしまい、僕はあわてた。ちゃんとした母との会話はとても久しぶりだった。朝はだいたい寝ているし、家に帰ってくるといつもは仕事に出かけてしまっている。そのため、「おかえり」と言ってもらえたことがすごくすごく嬉しかった。
僕はその浮き上がってしまいそうな気持ちを胸に、でも、恐る恐る母に話しかけた。
「ね、ねえ、お母さん」
「んー?」
正面を向いたままの母はお気に入りの香水の瓶を手に取った。丸みを帯びたガラスの中で薄いピンク色の液体が揺れる。その香水をつける時、いつも母は優しかった。僕の心はますます踊った。
「あ、あのさ、今日ね、学校の宿題でね、先生がさ、自分の名前の由来を聞いてきてって…言ってたから。だから、僕の名前って、どうやってつけてくれたのかなって…思って」
そのときの僕はとても緊張していた。顔がすごく熱くて、ぎゅっと握った手のひらは汗でぬれていた。本当はうつむいてしまいたかったけれど、母がこちらを振り向いたので、僕は反射的に顔を上げた。
「由来って」
静電気に触れたように、無意識に体が震えた。
「ないわよそんなの」
こちらを向いた母は、久しぶりに見た母の顔には、明らかな嫌悪の表情が浮かんでいた。
「あのクズ男がどうせ適当につけたんでしょ。…チッ、あーあ、せっかくいい気分だったのに余計なこと思い出させないでよ。最悪!」
そう言うと、荒い手つきでふんだんに香水を纏わせ、ギラギラした派手なコートを羽織った。
「…あ、お、おか…あさん…」
そしてもう二度とこちらを向こうとしない母は、その背中に追いすがる僕の声を突き放すように大きな音を立てて玄関のドアを閉めた。
しんと静まり返った部屋の中、思い出したように激しい雨音が聞こえた。
僕は背負っていたランドセルを背中から下ろし、膝に抱えてうずくまった。親戚のお下がりであるそのランドセルには傷や汚れがたくさんついていた。まだ2年も使っていない他の子たちのような光沢が、すっかり消えた色あせた黒色だった。
「雨とか、ほんと最悪だわ」
ドアが閉まる直前に聞こえた母のつぶやきと、具合が悪くなるような甘ったるい残り香に吐き気が止まらなかった。
誰が見てるわけでもないのに、僕はその傷だらけの黒の中へ、隠すように顔をうずめ、必死に唇を噛み締めた。
吐いたら、泣いたら、うるさくしたら、困らせたら、お母さんに怒られる。嫌われる。もうお話してもらえなくなるかもしれない。名前を呼んでもらえなくなるかもしれない。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
いい子にならなくちゃ。いい子にならなくちゃ。
ピカッ!
ドオォォン!!
そんな僕に追い討ちをかけるように大きな雷が空を貫いた。
「ひっ!」
僕はおもわず小さな叫びをもらし、両手で耳をふさいだ。涙が出そうになるのを唇を噛み締めることでなんとかおさえようとする。
あぁ、僕がいい子じゃないから。だから、お母さんもお空も怒ってるんだ。僕がいい子にならないから。ごめんなさい。ごめんなさい。いい子になるから、怒らないで。
小さなアパートの狭い部屋の端で、幼い僕はひとり、何度も何度も自分を責め立て続けた。