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会社帰りの満員電車
 揺れる車内で、俺たちは人ごみにもまれながらも、なんとかそれぞれつり革を握っていた。
 疲れてぼんやりと窓の外を見ていた俺は、電車の急な揺れに対応しきれず、ふらりと体勢を崩した。
 (わっ……!)
 立っていられなくなり、体が横に流れる。
 危ない、と思った瞬間――。
 「っと、危ない」
 隣でつり革を握っていたはずの尊さんが、素早く空いている方の腕を伸ばし
 俺の腰をぐっと引き寄せた。
 俺の体は、強い力で支えられ、そのまま尊さんの胸板に軽くぶつかる。
 「た、尊さん、たすかりました…っ」
 「全く……お前は本当に危なっかしいな。少し揺れただけで、そんなによろめくなんて」
 低い声が、至近距離で耳元に響く。
 周りの乗客の視線が気になり、顔が熱くなる。
 「うぅ、すみません……っ」
 すぐに離れようとすると、尊さんは俺の腰に回した腕に少し力を込めた。
 「まだだ。次の駅まではこのままでいろ」
 「えっ?」
 「お前のことだ、また転びそうになるかもしれないしな」
 彼の体温と、仕事着のスーツから香る柔軟剤の匂い。
 周りの喧騒が遠のくほどに、俺の胸は高鳴る。
 「すっすみません、体幹鍛えた方がいいですね…あはは」
 小さく自嘲気味に笑うと、尊さんはクスッと笑って、小声で呟いた。
 「……ま、そんな危なっかしいところも可愛いと思ってしまう俺も大概か」
 「え……っ」
 次の駅で電車が止まり、揺れが収まったのを確認し、そっと俺を解放した。
 「どした?降りるぞ」
 「あっ、は、はい!」
 その横顔が優しくて、愛おしい気持ちが溢れ出てくる。
 本当に、この人の優しさには胸が締め付けられるように苦しくなる。嬉しい苦しさだ。
 (…尊さん、いつもスマートに助けてくれる…それだけちゃんと俺のこと見てくれてるんだよね)
 そう思うと自然と口角が上がった。
 
 ◆◇◆◇
 帰り道、アスファルトに映る街灯の光が、二人分の影をゆらゆらと伸ばしていた。
 夜風は少し冷たくて、けれど尊さんの隣を歩くと
 それだけで、手の先まであたたかくなる気がする。
 「雪白、今日はシチューの予定だが、来るか?」
 その声は、夜の静けさをやさしく割くようにして届いた。
 聞いた瞬間、胸の奥がふわりと浮く。
 「え、行きたいです! そうだ、にんじんハート型にしたいです!」
 我ながら子どもみたいな返事をしてしまって、恥ずかしくなる。
 けれど尊さんは、ほんの少しだけ口角を上げて、「ふっ、決まりだな」と短く笑った。
 その一言が、どうしようもなくうれしい。
 「……明日は休みだしな、ワインでも開けるか」
 「やった!! 尊さんとお酒飲むの久しぶりですよね!」
 少し前までは、こうして気軽に“やった”なんて言える日が来るなんて思わなかった。
 あの頃の自分には、尊さんと笑いながら家路を歩く未来なんて想像もつかなかったから。
 だから、こうしてまた隣に並んで笑えているだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
 「まあ最近は忙しくてコーヒーかエナドリばっかだったからな」
 尊さんがぼそりと呟く。
 その横顔は街灯の光を受けて少し影になって、なんだか儚いほど綺麗だった。
 「言葉だけで聞くと心配なるんですけど…逆に大丈夫なんですか? 体の調子とか…」
 「問題ない、それに俺は50徹したことだってあるんだからこのぐらい楽勝だ」
 「えっ?! ごっ、50徹?! え……や、やばくないですかそれ……? え? す、すごいっていうか……そんなに人って徹夜できるものなんですか…っ?」
 思わず素で驚いてしまって、変な声が出る。
 尊さんは横で肩を震わせながら、明らかに笑いを堪えている。
 「くくっ……冗談に決まってるだろ。本当に騙されやすいな雪白は」
 あまりにも楽しそうに笑うものだから、こっちは顔が一瞬で熱くなった。
 「も、もう! 尊さんの冗談は分かりにくいって前も言ったじゃないですか!」
 「いや…ははっ、だからって50徹したなんて冗談だって誰でもわかるだろ」
 「わ、わかりましたからっ……何度も言わないでください!」
 ぷいっとそっぽを向く。
 耳まで熱くて、視線を合わせるのが恥ずかしい。
 だけど、そんな俺の反応を楽しむように尊さんの笑い声がもう一度落ちてきた。
 「ふっ……顔赤いぞ」
 「尊さんのせいです……っ!」
 口ではそう言いながらも、心のどこかで――この空気が、好きだと思ってしまう。
 尊さんといると、息の仕方まで優しくなる。
 「…可愛いな」
 耳元で囁かれた尊さんの声にビクっと肩が跳ねて、尊さんの方に顔を向けて声を上げる。
 「い、いい加減からかうのは…!」
 次の瞬間だった。
 不意に、尊さんの指先が俺の顎に触れる。
 「……っ?」
 ほんの少し力を加えられて、顔を上げさせられる。
近い。
 目が合った。
 街灯の光が尊さんの睫毛にかかって、そこから一瞬、息を呑むほどの静けさが生まれた。
 何か言おうとした瞬間───
 唇に、やわらかな熱が触れた。
 短い、けれど確かに心臓を撃ち抜くようなキス。
 驚いて目を見開いたまま固まる俺の頬を、尊さんが指でそっと撫でる。
 その仕草が、冗談の続きでも悪戯でもなく
 ただ「好き」を伝えるためのものだとすぐにわかってしまって、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
 「……っ、い、いきなり…ずるいです」
 かろうじてそう言うと、尊さんが目尻を緩めて小さく笑った。
 「そうか?して欲しそうな顔に見えたんだが」
 「っ……そ、そんなの知りません……!」
 自分の方が照れさせられてばかりな気がして
 「…た、尊さんがしたかったんでしょ」
 なんて言い返せば
 「だったら悪いか?」
 当然みたいな顔で言ってくるから、さらに顔が赤くなった気がした。
 「わっ、るく…ないです……けど」
 どうしてそんなことをさらっと言えるんだろう。
 息が詰まるほど照れて、けれど嫌じゃない。
 むしろ、この夜が終わってほしくないと思ってしまうほどに幸せだった。