テラーノベル
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夜の最終バスは、いつもより静かだった。
雨に濡れたアスファルトを滑るように走る古びた路線バス。行き先表示には、かすれた文字で「終点」とだけ書かれている。乗客は、私を含めて五人。誰も口をきかない。
車内アナウンスが、不意に途切れた。
「次は――」
そこで音声が歪み、低く引き伸ばされたノイズに変わる。運転席を覗き込もうとしたが、運転手の顔はバックミラー越しに見えない。いや、見えているのかもしれない。ただ、黒く塗りつぶされているように“認識できない”のだ。
次の停留所に着いた。
ドアが開く。
だが、そこは停留所ではなかった。街灯も、家もない。霧に包まれた闇だけが広がっている。
それでも、ひとりの乗客が立ち上がった。背広姿の男だ。無言のまま降りていく。足音は、コツ、コツ、と二歩で途切れた。
ドアが閉まる。
私は急に不安になり、車内の路線図を見上げた。見慣れた駅名が並んでいるはずだった。だが、そこに書かれていたのは、奇妙な名前ばかりだった。
「後悔橋」
「忘却町」
「埋立地(未帰還)」
最後の停留所には、赤い文字でこう書かれている。
「回収場」
胸がざわつく。降車ボタンを押そうとしたが、どこにも見当たらない。代わりに、座席の背に小さな札が貼られているのに気づいた。
“あなたの席は、ここです”
視線を感じた。
向かいの席に座っていたはずの老婆が、いつの間にか隣にいる。顔を上げると、彼女の目は白目だけだった。
「あなた、もう降りたでしょう?」
かすれた声が耳元で囁く。
背筋が凍る。私は立ち上がり、非常口へ向かって走った。だが通路が伸びていく。前へ進んでいるはずなのに、車内は無限に続いている。
座席、座席、座席。
どの席にも“私”が座っている。
濡れた私。
泣いている私。
目を閉じて動かない私。
そのすべてが、一斉にこちらを向いた。
バスが急停止する。
衝撃で床に倒れ込む。顔を上げると、フロントガラスの向こうに巨大なゲートが見えた。錆びた鉄骨に掲げられた看板。
「回収場」
運転手が、初めて振り向く。
そこに顔はなかった。暗闇の中に、ぽっかりと口だけが浮かんでいる。
「お忘れ物を、お返しします」
車内灯が消えた。
暗闇の中、無数の手が私の足首を掴む。
それは座席の下から、窓の隙間から、天井の通気口から伸びてくる。
引きずり込まれる瞬間、私は思い出した。
あの日。
事故を起こした夜。
ブレーキが、間に合わなかったこと。
そして、私が“降りた”ことを。
雨音が遠ざかる。
次の瞬間、私はバス停に立っていた。見慣れた街の朝。通勤客たちが列を作っている。
やがて、いつもの路線バスがやって来る。
ドアが開く。
運転手が微笑む。
「お待たせしました」
私は、一瞬ためらう。
だが後ろから押され、足を踏み入れる。
車内アナウンスが流れる。
「次は――後悔橋」
その声は、確かに私のものだった。
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