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私は|ティアン《姉》になりたいと思った事はない。
もちろん本心だったし、本当にずっとそう思ってきた。——が、まさか……こんなにも早く撤回する事になるなんて、自分はなんて気変わりの早い女なのだろうか。まさか、心から『“ティアン”になって本当に良かった!』と強く思う瞬間がくるとは。思いも寄らずこの体に入れられ、ものの一時間程度で痛感する羽目になると予想もしていなかった自分のアホさ加減にも呆れてしまう。
シリウス公爵家を含む五大家の敷地は何処も、例えるなら大きな『牢獄』である。
聖痕のある者も無い者も、血族がその敷地から勝手に出る事は絶対に許されない。警備の者が多くて難しいというのもあるみたいだが、一番の原因は枷のような魔法のせいだ。聖痕のある者はその聖痕そのものに反応し、持たずに生まれた者には枷となる魔法を生まれてすぐにかけられる。前者は彼らの命を守る為の誘拐防止対策として。後者はもちろん、逃走防止の為に用意された魔法だ。聖痕無しは例外なく人間扱いをされないので、耐えきれずに逃げ出そうとする者が昔から多かったのだろう。だが全員を監視するには無理があるから、その様な魔法をご先祖様は開発したに違いない。
だがそれにも例外があった。
聖女候補である“ティアン”という例外が。
聖痕が無く、だけど他の聖痕無し達とは違って、長い事候補のままだとはいえ『聖女』になり得るかもしれない宝の様な存在には囚人に着ける枷の様な魔法は心情的に掛けられない。枷ともなる魔法の代わりに、多くの護衛や侍女をつける事で彼女は守られ、今日までティアンは無事に生きてきた。
(……あれ?ならどうして、神殿からの帰り道には姉の護衛が側に居なかったんだろう?)
御者が行方知れずになっていた事も気になるが、護衛の部隊が同行していなかった事に今更ながら疑問を抱く。行きと、帰りの直前までは確かに護衛の者達が側に居たのに、一体何処に消えてしまっていたんだろうか。
——そんな、今考えても仕方のない事を気にしつつ、私は改めて『いやいや。今は一刻も早く、メンシス様が来る前に逃げよう』と決めてすぐに行動を起こした。
この国の成人年齢は周辺諸国よりも少し遅く、二十歳である。一般的な貴族の公子達は十五歳で社交界デビューを果たすが、成人するまでの五年間は見習いみたいなもので、色々な交流を持ちつつ大人になる為の勉強をする期間となっている。昼間は学校などへ通い、社交界シーズンはパーティーの前半のみに参加を許され、多忙ながらも青春を謳歌出来る期間らしい。
(もちろん、聖痕無しの私は社交界デビューどころか学校へも通わせてはもらえなかったんだけどね)
今は当主代理として、行方不明という事になっている父の弟であるヌスク叔父様が公爵家のほぼ全ての必要業務を機械的にこなしてくれている。だが|“ティアン”《姉》が成人した暁には彼女が当主となり、叔父様は補佐官となる予定だった。姉が当主となっても、セレネ公爵家に嫁ぐ予定もあったから、ヌスク叔父様の仕事の負担はきっと少しも減らなかっただろう。下手をすると尻拭いに奔走してもっと多忙を極めていたかもしれない。
仕事は忙しいのに、“代理”でしかないせいで実権の無い叔父様は当主の証であるシリウス家の指輪を持たされてはいない。指輪はもう既にティアンへ譲渡されており、彼女が成人するまでの間は本人がきちんと管理しているはずである。もっとも、その指輪は予備として保管されていた模造品であり、本物は父と共に行方不明なままだ。
(……逃げる前に、まずはその、“当主の指輪”が必要だよね)
私がこのまま逃げたとなると、聖痕無しである叔父に全ての責任と疑惑がのしかかる気がする。何の証拠もないのに、八つ当たり的に。そうなってしまっては今まで私を影ながら支えてくれていた叔父に顔向が出来なくなる。だけど当主の証となる指輪を叔父に残せばきっと、表立っては叔父を非難する者はいないはずだ。
シリウス公爵家には今、聖痕持ちは存在しない。それでも今日まで『公爵』でいられたのは聖女候補であるティアンが居たからだった。それをも失えばいずれは侯爵に降格する事になるが、別に財産を没収されるわけでもなし。五大家の中で権威を振るえなくはなるけど、ヌスク叔父様ならのらりくらりとどうにかして下さる……と思いたい。
(だけど……私は、“ティアン”の持つ指輪の隠し場所が全くわからないんだよね)
体とは違い、私は姉の記憶を継承したりしている訳ではないので、さっぱり検討もつかない。引き出しの中やベッドの下など、隠し場所になりそうな所は色々見てみたが、残念ながらそれらしき物は何処にも無かった。
自室以外でとなると探す箇所の対象があり過ぎて、指輪みたいに小さな物を一人で探し当てるだなんて到底不可能だ。しかも、今は時間制限もある。メンシス様がこの屋敷に到着する前に指輪を見付け、荷物を持って脱走するとなると……もう残された手は一つだった。
(これはもう、お父様の指輪を……持って来るしか)
そう考えた瞬間。脳裏に父の最後の表情が浮かんできた。喜びと憎悪に満ちた、『父親』とは到底呼べない恐ろしい男の顔だ。妻を尊敬はすれども、別に愛していた訳でもないのに、何故ここまで生物学的に血を分けた子供を憎めるのだろうか?と不思議に思ったのを覚えている。
時間は無い。セレネ公爵家を彼がもう出発したのだとしたら、私に残された時間は本当に少ないものだ。
(急げ、急げ急げ急げ——)
行方不明という事になっている父の元に行くと思うと、それだけでどうしたって怖気づく足を無理やり動かし、私は寝衣の上にショールを羽織って、こっそりティアンの部屋を抜け出したのだった。