コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
存在自体が嵐の様なシュバルツが自分の部屋に戻り、ルス達の部屋の中には平穏が戻ってきた。『リアンはどうしているのかな?』と思いルスが弟の部屋を覗いてみると、彼はペットベッドの上で丸まって寝ていた。腹が満たされ、昨日と同じく今日も天気が良いから、窓から差し込んでくる春の日差しの心地良さには抗えなかったのだろう。
今日は朝食を食べ終えたら直ぐにリアンを保育所に預けて討伐ギルドに行くつもりだったのに、ぐっすり眠っている赤子を抱え上げてまで行くのは流石に忍びない。抱えても起きないかもしれないが、起きた時に自分の部屋じゃないという状況は結構怖いだろうなと思うと、ルスは眠るリアンに触れる事が出来なかった。
「保育所には午後から預けたらどうだ?伝書鳥を送って連絡しておくから、今はゆっくり寝かせてやるといいよ。寝ていても、抱えて無理矢理連れて来いとは流石に言わないだろ」
ルスの返事を待つ事なく、スキアが自分の伝書鳥を呼び出す。即座に何処からともなく漆黒の塊が現れ、背の高いスキアの肩にドンッと乗った。首回りには半透明な魔法陣が細いチョーカーの様にぐるっと巻きついていて、この烏は野鳥ではなく、スキアの所有している伝書鳥である事を主張している。
「…… 八咫、烏?」
スキアの肩に乗る濡羽色をした真っ黒な烏の足は三本あり、普通のカラスよりも随分と大きい。スキアにかなり懐いているみたいで、呼び出してもらえた喜びを示すみたいに頭を彼の頬に擦り寄せている。
「へぇ。コイツは、ルスの世界ではそういう名で呼ばれているのか?」
「あ、うん、多分そのはず。確か神話に出てくる鳥らしいから、実際には見られないけど」
「そうか。随分と大層な存在にされている世界があるんだな、お前は」と言い、スキアが八咫烏に酷似した烏に顔を近づける。するとその烏は彼の鼻先に頭をコツンとぶつけた。そんな様子を前にしたせいで、リアンがきっかけですっかり動物好きになっているルスは『可愛い!』としか考えられなくなる。世の尊さの全てがこの瞬間に集約されている気さえしてきた。
「ねぇねぇ、その子の名前はなんていうの?」
スキアの服の袖を軽く引っ張り、 尻尾を振りながらルスが訊く。
「名前?」
「うん、名前」
「あー…… 、ない」
「ナイ君?」
「あ、いや。つけていないんだ、名前は。今までずっと不要だったから。——何だったら、コイツもルスが名付けてもいいぞ」
「えぇっ?な、名前を?」
スキアの名前を考えた時だって大量出血中で上手く動かない脳を必死に働かせて知識を総動員した感じだったのに、そう簡単には思い浮かばない。だが既に八咫烏は期待に満ちた目でルスの方を見てきている。どうやらこれは今直ぐにでも命名してあげる必要がありそうだ。
だけど、やっぱりさっぱり思い付かない。人様の伝書鳥の名前なんて責任重大だっていうのに、彼女から出てくるのは冷や汗ばかりだ。
「…… ヤタ、とか?」
「直球だな」と言って、スキアがははっと短く笑った。
「そうだよねぇ、ごめん。で、でも名前を考える機会って生きている間にそうそうある事じゃないでしょう?パッとは浮かばないよ」
「じゃあ僕の時も相当悩んだんだろうな」
「んー…… 今回と比べると、そうでも、ないかな。なんかほら、天啓が降りてきたみたいな感覚だったから。直前まで『こりゃ死ぬな』みたいな状態だったし、頭の中が普段よりも少しスッキリしていたのかも、ね。…… 別の名前に変える?」
成る程な、みたいな顔をした後、スキアがゆるりと首を横に振った。
「いや、わかりやすくて良いんじゃないか?僕はコイツが『八咫烏』って呼ばれている世界を知らない訳だし、直球なネーミングでも全然問題ないしな」
「じゃあ、ヤタ君で決まりだね」
「ん?雄だってよくわかったな」
「んー…… 雰囲気?ただ何となく、そんな気がしただけで理由はないよ」
「そっか。そう言えば、ルスには伝書鳥はいないのか?」と言って、スキアがリビングの中を見渡した。この部屋に鳥籠らしい物は一切無く、リアンの部屋にもルスの私室でも見た記憶がない。だが、スキアがルスから勝手に抜き取った“記憶”の中では彼女が伝書鳥を得ているので、所有しているのは確かだ。だけど既に得ている“記憶”だけではそこまでしかまだわからない。伝書鳥はヒトと鳥との相性の問題がある為万人が手に入れられる者ではなく、ましてや一度繋がった縁を切る事はほぼ無いので、見当たらない事が不思議でならなかった。
「えっと…… いるんだけど、ウチの子はワタシにあんまり懐いてなくって。臆病な子だからリアンの事も怖がっているし、仕方なくずっと外で飼ってるんだよねぇ」
そう言ってルスがリビングの中にある一番大きな窓の方へ足を運ぶ。レースのカーテンを少し開け、揃って傍まで来ていたスキアの方に「一番近くの木の上に居るんだけど、見える?」と小声で問い掛けた。
「あぁ、あの白い鳥か?」
「うん。ワタシの故郷では“シマエナガ”って呼ばれていた品種に近い見た目の子なんだ。まん丸で可愛いでしょ」
「…… そう、だな。可愛い可愛い」
スキアは一瞬『そうか?弱々しい鳥にしか見えないが』と本音を口にしそうになったが、即座に止めた。ルスの感情に共感する事で、より一層心の距離を詰めるべきだと考えを改めたからだ。
「あの鳥の名前は?」
「ユキっていうんだ」
「もしかして、白いから“ユキ”?」
「うん」
「…… 僕の名前をつける時は、本当にすごく頑張ったんだな。天啓ってやつに感謝しないとだ」
“ヤタ”に続き、直球なネーミングを聞いてスキアがそう痛感する。“カゲ”や“クロ”と名付けられていてもおかしくなかったのかと思うと、正直ゾッとした。
「んじゃ、早速ヤタを向かわせるな。それとも、保育所にはユキを向かわせるか?」
「んー…… ヤタ君に頼もうかな。ユキはワタシが近づくだけでもビクビクしてるからお願いしづらくって」
「そっか。——んじゃ、頼むぞ」と、“ヤタ”と名付けられた八咫烏にスキアが保育所へ遅刻の連絡を頼む。三本の細い足の一番端に付けられた魔法石を加工した、ブレスレットにも似た飾りに伝言を込めると、ヤタがスキアの肩から飛び立って行く。窓ガラスをするりと通過して行く様子を見てルスは少し驚いていたが、『流石は、八咫烏!』と一人勝手に納得したのだった。