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ここからは、後に「事故」と呼ばれる夜を迎えた、ある執事の話だ。
俺の名前は朝倉 花蓮。正直に言えば、俺の人生は、どこにでもあるものだったと思う。
地方の小さな町で、特別に裕福でも貧しくもない、両親2人と妹に僕を加えた4人で生活をして、学校を出て、いくつか仕事を転々とした。
営業は向いていなかったし、工場の流れ作業は息が詰まった。
何かになりたい、という強い夢もなかった。
だからこの仕事を見つけたとき、
「悪くないな」と思っただけだった。
住み込み、食事付き。
給料も安定している。
仕事内容は執事――と言っても、掃除や配膳、庭の手入れがほとんどだ。
でも、嫌いじゃなかった。
この屋敷は少し変わっていたが、居心地は悪くなかった。
“赤い花”が多いのは気になったが、芸術家の家なんてそんなものだろう、と納得していた。
家主は芸術家であり、また、小説家でもあると聞いている。
作品は見たことがないが、屋敷のあちこちに、その趣味だけは残っていた。
新人が来るらしい、という話を聞いたのは、その日の昼だった。
控えの間で誰かが言った。
誰も大きな声では返事をしない。
夜になると、決まった時間に灯りが落ちる。
消灯後は部屋から出ない。
理由は説明されないが、そういうものだと受け入れていた。
ただし、完全な闇になるわけではない。
消灯担当の執事が一人、見回りをする。
だから、
消灯後に足音がしても、それだけで異常とは言い切れなかった。
その夜も、特別なことはなかった。
少なくとも、そう思っていた。
夕食を終え、持ち場を片付け、部屋に戻る。
古い木の床が、足音を小さく吸い込む。
部屋は狭いが、清潔だった。
ベッドと机、それだけで十分だ。
時計を見る。
もうすぐ消灯の時間だ。
「……今日も終わりか」
そう呟いて、明かりを落とした。
暗闇は、思ったより静かだった。
外の風の音も、虫の声も聞こえない。
屋敷全体が、息を潜めているようだった。
布団に入って、目を閉じる。
――そのときだった。
どこかで、床が鳴った。
気のせいかと思った。
この屋敷は古い。軋む音くらい、いくらでもする。
もう一度、音。
今度は、近い。
「……誰かいるのか?」
返事はない。
消灯後に廊下を歩く者はいない。
それが、ここで働く人間の常識だった。
だから、妙だと思った。
布団から身を起こした瞬間、
背後で、空気が動いた。
何かが、近づく気配。
振り向こうとした――
そのとき、首元に冷たいものが触れた。
声は出なかった。
息を吸おうとしても、うまくいかない。
視界が、ゆっくりと暗くなる。
最後に思ったのは、
こんな終わり方も、あるのか、ということだった。
特別な人生じゃなかった。
だから、特別な最期でもない。
ただ――
朝になれば、誰かが見つけるだろう。
そう思ったところで、意識は途切れた。