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#BL
#ヒューマンドラマ
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「……失礼いたしました」
手が、離れた。
三人が頭を下げ、影に溶ける。
足音が遠ざかる。
静けさが戻った。
縫季は息を吐いた。吐いた途端、膝が笑いそうになる。
「無茶をするな」
帝辛が、塀を越えてこちらへ来た。
護衛が止めようとした気配がある。帝辛は、それも手で制した。
「怪我は」
縫季の手首を見る。赤い痕が、くっきり残っていた。
帝辛の指先が近づく。触れそうで、触れない。その距離で、止まる。
「……ありません」
縫季は答えながら、一歩退いた。
帝辛は退かなかった。
退かずに、縫季の顔を見た。
「目が、少し虚ろだ」
「……問題ありません」
「香か」
一言だった。それだけで、全部分かっている顔だった。
縫季は、息を呑んだ。
帝辛が続ける。
「清朗の部屋に入ったのだろう」
断定だった。
縫季は何も言えなかった。
帝辛は視線を外さない。責めていない。怒ってもいない。ただ、見ている。
「……なぜここへ」
縫季は、やっと言葉を出した。
「巡視だ」
「この場所まで来ることは」
「ある、と言えば嘘になる」
帝辛は静かに続けた。
「お前がここへ向かったのを見た。足取りが、いつもと違った」
縫季は、唇を噛んだ。
見られていた。それだけではない。
覚えられていた。縫季の普段の足取りを。
「……殿下」
「次は、一人で動くな」
帝辛がそう言って、踵を返した。
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥で、何かが崩れた。
その瞬間。
掌が、冷えた。
(――警告)
管理官の圧ではない。縫季自身の線読みが、悲鳴を上げた。
殷の線が、今この瞬間、太くなった。
太くなった、というより。新しい線が、生まれかけた。
「帝辛が縫季を庇った」という記録。「帝辛が縫季の足取りを覚えていた」という記録。「帝辛が護衛を制してまで一人で近づいた」という記録。
それらが重なって、一本の線になろうとしている。
保存記録にない線。任務上、想定されていない線。
帝辛と縫季の間に生まれる、記録外の関係の線。
(……これも、歪だ)
清朗と帝辛の親密さが観測上の収束経路を変えたように、縫季と帝辛の距離が縮まることもまた、保存記録にない因果を積み上げる。
縫季がいるべきでない近さに、いる。
直後、脳の奥を、冷たい圧が走った。
『縫香官』
管理官だ。報告の刻ではない。それでも、来た。
圧は言葉というより、警告の形をしている。
意味は一つだった。
――お前も、歪の一部になっている。
縫季は足を止めた。
帝辛が振り返る。
「どうした」
「……いえ」
縫季は首を振り、歩き出した。
帝辛の一歩後ろ。影のように。
頭の中で、管理官の圧がまだ薄く残っている。
(分かってる)
分かっている。清朗を遠ざけなければならないのと同じように、自分もまた、遠ざからなければならない。
近づくほど、線が太くなる。太くなるほど、正史が歪む。
(分かってる)
それでも。
帝辛の背中から、目が離れない。
「頭は切れるんだがな」
歩きながら、帝辛が言った。
前を向いたまま。
「刃の前に出ると、急に雑になる」
ふ、と静かに笑む声。
縫季は、その背中を見た。
清朗の隣で笑う背中と、今、目の前にある背中が、重なる。
重なって、でも違う。
清朗と並ぶ帝辛は、安心を纏っている。縫季と歩く帝辛は、違う温度だ。
何か、もっと静かな。
胸の奥で、また何かが崩れた。
崩れた音を、縫季は飲み込んだ。
(最低だ)
そう思いながら。
それでも、帝辛の背中から、目を離せなかった。
鼻の奥に、まだ甘さが残っている。
清朗の香か。
それとも――自分の胸の熱か。
縫季は、舌の裏で甘さを確かめるように、ゆっくり息を吐いた。
甘い。残る。離れない。
清朗の香だ、と決めつけたい。そうすれば、責任は清朗に預けられる。
だが、違う気もした。
縫季は唇を噛んだ。痛みで、自分を線へ戻そうとする。
帝辛は振り返らない。ただ歩幅を変えず、先を行く。
その背中が、なぜか優しい。
優しさは檻になる。分かっている。分かっているのに、手を伸ばしたくなる。
縫季は、自分の掌を見た。
掴まれた痕。赤い。
そこに、別の赤が重なる気がした。清朗の必死さと、帝辛の静かな温度と、そして自分の黒さ。
(……線が、歪む)
縫季は目を伏せた。胸の中で、報告の文言を組み立てる。
――入口は清朗。――初期の狂楽香。――経路は医官府の裏。
そして、付け足してはならない一文が、喉の奥で燻った。
「殿下が、俺を救った」
それを書けば、任務が私情に汚れる。書かなければ、事実が欠ける。
縫季は、言葉を飲み込んだ。
飲み込んだまま、歩いた。帝辛の一歩後ろを、影のように。
掌の熱が、まだ残っている。
管理官の警告も、まだ残っている。
どちらも、消えない。
コメント
1件
第27話、読み終えました……。帝辛が縫季の手首の痕を見て「怪我は」と聞くところ、距離を保ちながらも触れそうで触れないその静かさ、すごく刺さりました。それに「次は一人で動くな」って、命令なのに優しさが滲んでて。縫季が「書けない事実」を飲み込むところ、胸がぎゅっとなりました。甘さが残るけど、それが自分の熱なのか清朗の香なのか分からなくなる感覚……本当に丁寧に描かれてて、引き込まれました。続き、気になります😢