テラーノベル
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「努力して一流ホテルで頑張ってきたんだろ? 日本でも十分通用するよ」
「そうだね……」
かつての私はガリ勉で、やっとの思いで難関大学に入学した。
それから先の進路は色々あったはずだけれど、子供の頃に訪れたホテルのホスピタリティに感動した私は、ホテリエになりたいと思って邁進し続けた。
ひたむきに努力していたけれど、今思うと「馬鹿みたい」と感じるし、「ホテリエじゃない道を選んだほうが良かったのかもしれない」と思うようになっていた。
一時は舞い上がって『ウィルにプロポーズされたの!』と家族にビデオ電話で自慢したけれど、何も言わず帰国した私に家族は何も尋ねない。
その沈黙、思いやりが逆に胸に痛い。
あれほど『ウィル、ウィル』とはしゃいでいたのに、帰国したあとは一度も彼の名前を口に出さなくなったから、すべてを察したのだろう。
そのショックも癒えていないのに、父まで喪うなんて……。
(……でも、いつまでも打ちひしがれていられない)
ゆっくりと起き上がると、健太が励ますように言う。
「二人で力を合わせて母さんを支えなきゃな」
渡米する前はまだ学生だったのに、いつのまにこんなに頼もしくなったんだろう。
(……いつまでも落ち込んでいられない。私が健太と一緒にお母さんを助けないと)
恋人はいないし、友達とはほぼ疎遠になっている。
でも家族のためなら頑張れる。
私はピシャン! と頬を両手で叩いて気合いを入れた。
「都心のホテルの面接を受ける!」
気力を取り戻した私を見て、健太は安心したように微笑んだ。
「都内勤務になるなら、いつでも連絡くれよ」
「私の事はいいから、彼女を大切にして」
家族想いなのは嬉しいけれど、健太には健太の人生がある。
せっかく彼女とうまくいっているのに、実家の事ばかりになって寂しい想いをさせたら、別れ話に発展しかねない。
結婚したら彼は一家の大黒柱になるんだし、一番大事な時期にチャンスを失っては駄目だ。
その後、私は都内にある有名ホテルの求人情報を検索し、条件などを表計算ソフトにまとめた。
自分にとって最良の就職先を絞り、そのあと一社ずつアタックして、堅実に働ける所を見つけるつもりだった。
母は私がやる気を取り戻した事を喜び、「家の事はいいから都内で頑張って」と言ってくれた。
けれど父が死んで一番疲弊しているのは母だ。
(絶対、老後は楽させてあげるから待ってて!)
――一度底まで落ちたら、あとは上がるだけ。
「行ってきます!」
黒いロングヘアはシニョンにし、濃紺のリクルートスーツを身に纏った私は、ブラウン系のアイメイクをし、ピンクベージュのリップを塗った。
――もうあの濃いルージュは塗らない。
以前ウィルに贈られ、宝物にしていたハイブランドのルージュは、燃えないゴミに捨てた。
私は日本で自分らしく生きていくため、都内にある神楽坂グループのホテル〝エデンズ・ホテル東京〟へ向かった。
**
面接時間の一時間前には日比谷にある〝エデンズ・ホテル東京〟に着いた私は、三十分ほどロビーで客層やコンシェルジュ、フロントの対応を観察した。
皇居ビューの五つ星ホテルだけあり、ロビーはとても上品、かつゴージャスだ。
磨き抜かれた黒い大理石の床はまるで鏡のようで、壁は優しいクリーム色の大理石や白壁を用いて、温かみのある照明やゴールドのシャンデリアを反射している。
フロントの後ろにある壁には組子細工が用いられていて、さりげなく日本らしさを演出している。
ホテルマンはモカブラウンとベージュを基調にした制服を着ていて、宿泊客を前に品のいい笑みを浮かべていた。
(とても素敵なホテル。ご縁があったらいいな)
ウィルに裏切られて、一時はホテル業界そのものが嫌になったけど、私はこの業界一筋で働いてきたし、いまさら別業種で働くのは現実的ではない。
それにおもてなしの空気が漂うホテルに来ると、「やはりこの空間が好きだな」としみじみ思う。
私たちホテルマンは、滞在するお客様に最高の思い出を作ってもらうためにいる。
帰国してからずっと萎んでいた情熱が、再び私の中で火をつけ、花開こうとしていた。
コメント
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騙され傷ついて帰国、そのうえ父を喪い… 深い悲しみの中、お母さんと優しい弟のためにも…と 気丈にふるまう芳乃ちゃん😢 今度こそ、きっときっと幸せが待っているよ!🍀