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かつてライゼン大王国の王女であり、シグニカ統一国に攫われた後は護女として、ひいては聖女アルメノンとして生きていた女リューデシアは、夜とも朝ともつかない黎明の時を、密やかにしかし足早に太陽から逃げるかの如く駆けていた。
紺碧から深紫、茜色へと移り変わりつつある空に鏤められた星々は一つまた一つと朝の薄膜の向こうへと溶けていく。新しい朝の訪れを祝うように駒鳥が甘く澄んだ鳴き声で喜びを歌っていた。
リューデシアの足は規則正しく着実に地を踏み、優雅さとは縁遠い力強い歩みを見せていた。一方で自身の限界を知らないかのように息せき切っている。一度足を止めたのは、しかし休むためではなく、長い裾をたくし上げて結び、走りやすくするためだ。戦士の国ライゼンの人間には似つかわしくない、運動を忘れた肉付きの柔らかな足の先はとても走るには向いていない薄く繊細な拵えの靴に収まっている。
それでもリューデシアは再び走り始めた。土に帰りつつある古い舗装を、何かから逃げるように、あるいは何かを追い求めるように。
そんなリューデシアが足を止めたのは、見知らぬ野営の天幕を騒ぎに乗じて抜け出してから初めてようやく人を見つけたからだ。
襤褸ではないがくたびれた格好の男と種々様々な衣を纏った十数人の子供たちだ。立派な衣を着た子供もいれば、襤褸を纏った子供もいる。口々に会話したり、泣いたり、ぐずったりしているが、男はじっと待ち構えるようにリューデシアの方を見つめていた。中年で髭面、良い身なりとは言えないが、特段怪しむほどの格好ではない。
「お前ら黙ってろ」男がそういうと子供たちは一斉に口を閉ざした。
十に満たない子供たちがまるでよく訓練を重ねた精鋭兵のように静まる。
「すまない。そう警戒しないでくれ」とリューデシアが先んじる。
「警戒するな? そりゃ無理な相談だ」と男が断じる。「女がそんな恰好で一人、こんな朝っぱらからネールメルとの境を越えてやって来たとなりゃ、人間だとしても、まともな人間とは思えないな」
「無理もない。だがただ道を尋ねたいだけなんだ」
「道を尋ねる?」男は益々表情を険しくする。「そっちか」と言って男はリューデシアの背後を指さし、「こっちかだ」と言って男は自身の背後を指さす。「他にあるか?」
男の言う通り、ただ一本の道が東西に延びているだけだ。
「いや、ああ、そうだな。この道の先には何がある?」
リューデシアは何人かの子供が涙を流していることに気づく。しかしその口は堅く閉ざされ、嗚咽の一つも聞こえない。
「ネモルの街だ。大王国の手には落ちていないが、ライゼン人が闊歩する最早骨抜きの都市さ。ルー王国ももう終わりだな」
「大王国か……」
「他に何か?」
「いや、ありがとう。恩に着る」
そう言ってリューデシアは男と子供たちを置いて立ち去り、ルー王国はネモルの街へ向かって歩み出す。
しかし丘とは言えない小さな起伏を越えて男たちの姿が見えなくなると、リューデシアは追われる者が追っ手を欺く時のように道を外れ、回り込んで来た方へと戻る。
「他にすべきこともないんだ」とリューデシアは寂しげに独り言ちる。
侮られる者のように背を低くして、罪深い者のように木立や灌木に身を隠しつつ、男と子供たちの様子が見え、声が聞こえるところまで戻ってくる。そして風下に潜む獣のように蹲り、聞き耳を立てた。
暫くは何も動きはなかった。時折子供が集団から離れると男が手招きし、子供が直ぐに戻ってくる、ということがあったくらいだ。新たな動きは道の先からやって来た。ネモルの街の方角からさらに五人の男と子供たちがやって来たのだ。一人当たり二人の子供を抱えたり、手を引いたりしている。泣いている子供がほとんどで抵抗する者はいない。
そして先に待っていた男の所まで戻ってくると、新たに連れられてきた子供たちは素直に子供の集団に加わるのだった。
「次は誰だ? がきどもの大将になるのは」とネモルの街を教えてくれた男が問うと、
「俺だ」と、後から来た男の一人が進み出る。
すると二人の男の間で何かが受け渡された。が、リューデシアにはよく見えなかった。何か小さなものを受け取り、それを胸元に抑えつけたところは目に見えた。
今度は何かを受け取った男が「並べ」と命じ、子供たちは渡り鳥の群れのように一糸乱れぬ動きで整列する。
リューデシアはじっとその様子を凝視し、瞳の中に固い決意を滲ませる。
どうやっているのか知らないが、子供たちは従わされているようにしか見えない。それが家族や何か、人の世に認められた集団にも見えない。
人攫いだ。声を漏らすことなく、リューデシアの唇が呟いた。
六対一では勝ち目がないが、仮に男たちを制圧出来たところで、子供たちを従える不思議な力の正体を見破らなければ解放できないかもしれない。鍵となるのは受け渡された何かだ。
男たちは子供たちを先に歩かせて東へ歩き始めた。リューデシアがやって来た方角だ。あの野営の連中と克ち合うかもしれないが、そうなった時の結果は読めない。
リューデシアは意を決して小石を握り込むと、灌木の陰から弧を描くように男たちの方へ放り投げる。小石は男たちの頭上を越えて道の反対側の背の高い草むらで物音を立てるが、誰も気づかなかった。立て続けに、誰かが気づくまで石を投げ続ける。
ようやく男たちが不審な様子に気が付く。
「誰かいるのか!? おい!」と男の一人が呼ばわるがもちろん答える者はいない。
男たちの内二人が草むらに踏み込む。残る四人も警戒し、何が飛び出てくるのかと見守っている。
当人は今まさに足音を忍ばせ、無人の草原に注意を向けた男たちの背後へ、何かを受け取った男の元へ近づいていた。足音を忍ばせると言っても鈍くはない。まるで人々の寝静まった時間に生業を始める者たちのようにリューデシアは新たに子供を従える男の背中に近づくと、目星をつけていた短剣を気づかれることなく抜き取り、口を抑えて刃をちらつかせ、耳元で囁く。
「静かにしていろ」
だが何を血迷ったのか男は暴れ出し、リューデシアに喉を切り裂かれた。当然、他の男たちは血を噴く仲間とその懐を探る女に気づく。
威嚇のような雄叫びのような下卑た声で男たちが怒鳴り、各々が短剣を抜いて飛び掛かって来るがリューデシアは既に一枚の札を盗み取って、元来た茂みの奥へと走り去るところだった。
血に汚れた札を拭うと前掛けをした鼠の戯画が現れる。裏面は粘ついており、これを胸に貼り付けていたらしい。
リューデシアは一か八か同じように札を胸に貼る。
「誰だか知りませんが無茶が過ぎませんか!? それに子供たちの目の前で殺すなんて!? あの血の量!? きっとみんな傷ついているはずです!」
突然聞こえた声の主を探すが周囲には誰もいない。それに声は耳ではなく、頭の中で響いていた。
「この頭がおかしくなった訳ではないんだよな?」
「貴方は元々おかしいんですよ!? 嗚呼、可哀想な子供たち。ただでさえ親から奪われ、攫われたのに、今度は私さえも盗まれるなんて!」
リューデシアは男たちから逃げながら息も絶え絶えに会話する。
「嘆くのは後にしてくれ。子供たちを助ける方法はないか?」
「え? 貴方は魔導書泥棒ではないのですか?」
「お前は魔導書なのか? いや、だからそんなことは後にしろ!」
「私は子供を育てるための魔術しか使えませんよ。私を貼った貴方も一時的に使えるはずですが」
「あの子らを大人に出来るのか?」
「子供を育てる魔術ではありません。子供を育てるための魔術です」
「ややこしいな。何か策はないか?」
「貴方にも私の使える古今東西の魔術の知識が読み取れるはずです。考えてください」
好き嫌いをなくす魔術。迷子を見つける呪術。癇癪が気にならなくなるおまじない。多種多様な力を持つ子守歌や遊び。
その一つに目を付けて、リューデシアは心に浮かぶ知らない呪文を唱える。それはアムゴニムのどこかにある鄙びた村に伝わる歌だ。森の奥から聞こえる囁き声を真似し、他愛もない意味もない会話に拍子をつけた素朴な力だ。由緒ある魔術の学び舎で教えられることのない飾り気のない力だ。
その歌に合わせて地響きが起こる。地面の下で何かが動いているかと思えば、土を掻き分けて何かが這い出てくる。それは赤子のようなずんぐりむっくりした体形の巨大な石像だった。頭はまるで獅子の鬣のように炎が噴き出しており、体は皮膚の波打つ丸々と太った豚のようだ。かなり粗削りな彫刻で、泥を固めたような出来だ。
その異様な像が子供のような甲高い笑い声を出しながら男たちを追いかけ始める。純粋で時に残酷な、幼い子供の無垢な笑い声に似ているが今は邪悪な響きに聞こえた。地面を擦るようにして進む石像はとても鈍いが、その恐ろしい姿に肝を冷やした男たちは途端に散り散りになって逃げていった。
「子供がこれでどうやって遊ぶんだ?」とリューデシアは心底答えの分からない疑問をぶつける。
「『石獅子と生贄子』ですね。あれから逃げて、触られたら追いかける役が代わるんです。最初の手番をあれがやってくれるわけですね」
名前はともかくありふれた遊びだ。
「あれで遊んでいる子供たちが古今東西のどこかにいるのか」
人攫いどもは逃げ去り、子供たちはその場を動けず、必死に泣き叫んでいた。
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