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その日
健一は自分から、クローゼットの奥に押し込んでいた「犬の耳」を取り出した。
あやめに焼かれた腕の傷が、疼くように熱い。
外の世界では、自分を「聖者」として崇める声と
「異常者」として嘲笑う声が渦巻いているが
この防音壁に囲まれた静寂の中では、蓮の支配だけが唯一の「真実」だった。
「……パパ、自分からそれを出したの?」
蓮が部屋に入ってきた。
その手には、奈緒が愛用していたものと同じブランドの紅茶が淹れられたカップがある。
「……ああ。蓮、俺を……叱ってくれないか。俺はまた、外に出たいなんて、愚かなことを考えてしまったんだ」
健一は自ら床に膝をつき、蓮の足元に頭を垂れた。
もはや、自由は苦痛でしかなかった。
誰の監視もなく、誰の指示もない場所で生きることは
奈緒という神を失った後の健一にとって、酸素のない宇宙に放り出されるのと同じだったのだ。
「……いいよ、パパ。…でも、お口で言わなきゃダメだよ。ママが言ってたルール、覚えてるでしょ?」
蓮は健一の顎を小さく蹴り上げるようにして上を向かせた。
5歳の子供の脚力とは思えないほど、その力は冷徹で、正確だった。
「…俺は、蓮の家畜です。……俺を、外の世界から守ってください。俺から、名前もプライドも、全部奪ってください」
「……よく言えました。…パパは、本当にお掃除が大好きなんだね。自分の『人生』を綺麗さっぱり消しちゃうくらい」
蓮は満足げに笑うと、ナオミのアカウントの「ライブ配信」ボタンを無造作に押した。
画面には、自ら進んで膝をつき、犬の耳をつけて幼児に忠誠を誓う「悲劇のヒーロー」の姿が映し出される。
『うわ、本物だ』
『救いようがない』
『究極の愛の形に見える』
コメント欄の狂乱を、蓮は楽しそうに眺めている。
健一は、自分を笑う数百万人の視線さえも今は心地よいと感じていた。
この視線こそが、自分が蓮(=奈緒)に所有されている証拠なのだ。
その時、画面の外から、一通の通知が届いた。
それは、死んだはずの奈緒が遺していた、最期の「予約配信」のトリガーが引かれた合図だった。
『――愛する二人へ。…パパが自ら跪いたとき、この動画が流れるようにしておきました。……さあ、いよいよ「家族の完成」よ』
テレビ画面に、あの日
家が燃え落ちる直前の、煤まみれの奈緒が映し出された。
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#大人ロマンス
#サレ妻