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#モテテク
#大人の恋愛
翌朝、目を覚ますと隣は空っぽだった。手を伸ばせば触れられるはずの場所に、冷えたシーツの皺だけが残っている。それが、今の私たちの距離そのもののように感じて胸が締めつけられた。
カーディガンを羽織り、リビングへ出ると、朝の光が容赦なく空虚な空間を照らし出していた。マホガニーのテーブルには昨夜のリングケースと離婚届が、並んでいる。
離婚したら、この静けさが毎日続く。孤独と背中合わせの生活が待っている。耐えられない。絶対に耐えられない。なんとしても拓也から離婚を切り出した本当の理由を聞き出さなければならない。
私は深呼吸してスマートフォンを握った。今日はLueurを休み、拓也の会社へ行く。直接会って、逃げられない場所で話す。やり直したい。この5年を、指輪に込めた想いを、簡単に終わらせたくない。
◇◇◇
私は拓也の会社からほど近い、昔よく二人で寄った喫茶店を選んだ。午後の陽射しが古い木のテーブルに柔らかく落ち、窓の外を歩く人波が行き交う。カウンター席に座り、視界の端で拓也の姿を待ち構える。運ばれてきたブラックコーヒーの香りは、ほろ苦く立ち上って孤独な胸を締めつけた。
拓也はいつも甘いカフェオレを頼んだ。ある時、私のブラックコーヒーを間違えて一口飲んで、眉を寄せながらも『うまいよ』と子供のような顔で無理に飲み干した。あの時の苦笑いと、照れ臭そうな横顔が脳裏に浮かんで、ふっと小さく笑いが漏れた。
笑った途端、目頭が熱くなる。こんなに近くにいるのに、もう声をかけられない距離にいるなんて。時計を見ると、退勤時刻まであと10分。コーヒーカップを両手で包み、窓の外を凝視した。スーツ姿の拓也が現れたら、どう切り出そう。『話があるの』とストレートに声を掛ける? それとも、昔のように『カフェオレ、飲む?』……どちらにしても、今日は逃がさない。理由を聞き出す。そして、やり直す道を探す。
外の歩行者信号が青に変わり、人波が動き出す。その中に、拓也の背丈に似た影が見えた気がして、私は息を止めた。
喫茶店の扉が開き、ウインドウチャイムが澄んだ音を立てた。小柄な女性と並んで入ってきたのは、紛れもなく拓也だった。スーツの肩に彼女の細い手が軽く触れ、二人は自然に笑みを交わしている。店員が「いらっしゃいませ」と声をかけ、奥のテーブルへ案内する。
拓也はまだこちらに気付いていない。女性は黒髪を肩まで伸ばし、コートの下から覗くワンピースが上品だ。年齢は同じ年くらいだろうか。麻里奈さんではない。知らない顔だった。
心臓が耳元で激しく鳴る。息が浅くなる。ネクタイに残った香りの主……まさか、この人?二人が席に着く。拓也がメニューを開き、彼女に何か囁く。彼女がくすりと笑った。その笑顔が、どこか親密で、私の知らない拓也の一面を見せつけられるようだった。
私はコーヒーカップを握りしめ、立ち上がろうとした足が震える。声をかける? それとも、このまま見ているだけ?拓也がふと顔を上げ、窓際の私と目が合った。
一瞬、彼の表情が凍りつく。隣の女性も彼の視線を追い、私に気付いた。静寂が喫茶店を包む。私の唇が、勝手に動いた。
「……拓也」
小さな声が、チャイムの余韻に溶けていく。
女性がゆっくりと立ち上がり、私のテーブルまで近づいてきた。拓也は慌てて立ち上がろうとしたが、彼女は軽く手を上げてそれを制した。
「突然ごめんなさい。佐々川瑞穂さん、ですよね?」
柔らかな笑顔だった。黒髪を耳にかけ、穏やかな目で私を見つめる。
「初めまして。山崎美咲です。佐々川さんの同僚で、広告代理店のプランナーチームにいます」
名刺を差し出され、私は反射的に受け取った。確かに『山崎美咲 クリエイティブプランナー』と印刷されている。品の良い香水の匂いがほのかに漂う。
――あのネクタイに残っていた香りと似ていた。
「佐々川さんから、奥様のことはよく聞いていました。ジュエリーデザイナーでいらっしゃるんですよね。Lueurでお勤めだと……」
彼女は自然に隣の椅子を引いて座った。拓也は遠くのテーブルで固まったまま、こちらを見ている。
「実は、最近一緒に大きなプロジェクトを担当していて。残業が多くて、ご迷惑をおかけしているんじゃないかと心配で……」
丁寧な口調だった。でも、その瞳の奥に、どこか探るような光がある気がした。私はコーヒーカップを握りしめ、声を絞り出した。
「同僚……だけ、ですか?」
山崎美咲は一瞬だけ目を伏せ、すぐに微笑んだ。
「ええ、もちろん。それ以上でも、それ以下でもありませんよ」
けれど、その言葉が本当かどうかは、香水の香りが全てを物語っていた。
突然、喫茶店の扉が勢いよく開き、ウインドウチャイムが慌ただしく鳴った。
「すみません! 遅れて……!」
息を切らせて駆け込んできたのは、待ち合わせをしていた田中健介だった。広告代理店の後輩で、拓也のチームメイト。今日は『拓也のこと、少し知ってるかもしれない』と連絡を入れて、密かに会う約束をしていたのだ。
健介は店内を見回し、私の姿を見つけて手を挙げたが、すぐに視線が奥のテーブルに止まった。そこに座る拓也と山崎美咲の姿を見て、明らかに動揺した。
「あ……佐々川さん……えっと……」
彼は言葉を詰まらせ、私のテーブルに近づきながらも、奥をチラチラ見ている。拓也もこちらに気付き、顔を強張らせた。山崎美咲は静かにコーヒーを口に運び、興味深そうに私たちを交互に見比べている。彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ、何か計算された光が宿ったように見えた。
「……なにかお話があるみたいね? 私は失礼するわ」
山崎美咲は優雅に立ち上がり私に小さく微笑むと、軽く会釈をして拓也のテーブルに戻った。彼女は朗らかに微笑みながらバッグを手に取り、拓也に小さく声をかけると、会計を済ませて店を出て行く。ガラスの扉が閉まる音が、静かに響いた。
拓也はカフェオレに口もつけず、固まった表情でこちらを窺っている。視線が痛いほど刺さる。田中健介が何を話すのか、気が気ではない様子だ。健介は額の汗をハンカチで拭い、小声で切り出した。
「佐々川さん……実は、山崎さんと佐々川さんのこと、最近みんながちょっと気にしてて……」
私はコーヒーを一口飲み、静かに促した。
「続けて」
彼は声をさらに低くした。
「プロジェクトの打ち合わせで遅くなるのは本当なんですけど……二人きりで残ってる時間が多くて。しかも、社内の誰も行かないバーとかに行ってるらしいんです。先週も、終電近くまで一緒にいたって……噂になっていて」
拓也の視線がますます鋭くなる。私はゆっくりと息を吐いた。
「それで?」
健介は目を伏せた。
「山崎さん、佐々川さんのこと、かなり気に入ってるみたいで……。佐々川さんも、最近なんか様子が違ってて。奥さんの話、ほとんどしなくなったし……」
言葉が胸に突き刺さる。私はカップを置き、奥のテーブルを見た。拓也はもう耐えかねたように立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくる。
「瑞穂」
低く、抑えた声だった。
「健介に何を聞いてるんだ」
私はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「本当のこと、ね。あなたから聞けないから」
喫茶店の空気が、ピンと張りつめた。
「じゃ、じゃあ……僕はこれで……」
私と拓也の間で縮こまっていた田中健介は、ハンカチで額の汗を拭い慌ただしく席を立つ。「お先に失礼します!」彼は拓也に深くお辞儀をすると、コートの裾を翻して店を出た。「ありがとうございましたー!」店員の明るい声が、私たちを取り巻く重苦しい空気を幾らか和らげた。
「ねぇ、拓也」
「なんだ」
カウンター席のガラスに二人の顔が映る。それは別々の方向を向き、微笑み合うことはない。私は、道ゆく人と車のヘッドライトの流れを眺め呟いた。
「山崎さんのことが好きなの?」
「……同僚として、尊敬してる」
目を伏せ、溜め息を吐いた。
「同僚って……都合の良い言葉ね」
「どう言う意味だ」
「離婚の原因は山崎さん?」
「バカなことを言うな」
「バカなこと?」
私はゆっくりと体を向け、拓也をまっすぐに見た。カウンターのガラスに映る二人の顔は、まるで他人同士のように離れていた。
「だったら、教えて。離婚届を置いて、マンションを解約して、一ヶ月で出て行けって……そんなに急ぐ理由は?」
拓也は唇を噛み、カフェオレのグラスを指でなぞった。冷めた液体が、わずかに揺れる。
「瑞穂……お前には関係ない」
「関係ない?5年間一緒にいたのに?」
声が震えた。喫茶店のバックミュージックが遠く聞こえるだけだ。拓也は目を伏せたまま、低く呟いた。
「俺は……もう、お前を幸せにできない」
その言葉に胸が締め付けられる。けれど、どこかで彼は言葉を選んでいるように見えた。 “本当の理由”はまだ、私に届いていない——それだけは確かだった。
「どういう意味? 山崎さんが幸せにしてくれるってこと?」
「違う!」
初めて拓也が声を荒げた。でもすぐに肩を落とし、疲れたように額を押さえた。
「山崎は関係ない。ただの同僚だ。信じろよ」
信じろと言われても、ネクタイの香り、遅い帰宅、離婚届……疑惑ばかりが残る。
私はバッグから濃紺のリングケースを取り出し、テーブルに置いた。
「これ、覚えてる? 5周年で渡すはずだった指輪」
拓也の視線が、リングケースに釘付けになる。指がわずかに震えていた。
「開けてみて。もう、意味ないかもしれないけど」
彼はゆっくりと蓋を開けた。サファイアの青が、夕日に静かに輝く。拓也の瞳に、初めて揺らぎが見えた。
「……瑞穂」
小さな声だった。私は涙を堪え、静かに言った。
「本当の理由を、ちゃんと教えて」
「山崎は関係ない……」
拓也はそう言うと黙ってしまった。窓ガラスの向こうにヘッドライトの川が流れ、二人の影をぼんやりと重ねていた。
「……じゃあ」
「拓也、待って」
拓也はレシートを手に、席を立った。その日以来、彼はマンションに帰ることはなかった。
「幸せに出来ないって……何を隠しているの?」
私は一人きりのマンションでスケッチブックを広げ、鉛筆を握った。線を引く指先が、わずかに震えていることに気づいた。宝石の輪郭を描くはずの線が、わずかだが歪んだ。深呼吸を1つ。『永遠の再生』——このモチーフは、私の人生そのものだった。震えを抑え、歪んだ線を、ゆっくりと、力強く直した。
指輪をスケッチブックに置き、深く息を吸った。 この歪みを、作品に、人生に、そして真実に──必ず映し出してやる。
まずは……探らなければ。