テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
管理官は答えない。
縫季は、笑いそうになって、やめた。
管理官が問う。
『それでも、切れるか』
縫季は一拍、息を吸った。胸の奥が痛い。
帝辛の笑みが浮かぶ。月明かりの下の、無防備な顔。その笑みが後年の保存記録から消えていくことを、知っている。
縫季は言った。
『……切る』
管理官が問う。
『なぜだ』
縫季は目を閉じた。
『殿下の悲しみを、これ以上増やしたくない』
その言葉は、言い訳ではなく、誓いみたいに落ちた。
管理官の圧が、少しだけ細くなる。
管理官が言った。
『明朝、動けるか』
縫季は短く返す。
『動く』
管理官が言う。
『結果は必ず報告しろ』
縫季が言う。
『……分かってる』
白い圧が、音もなく消えた。部屋に静けさが戻った。それだけだった。
縫季は小壺を卓に置き、しばらく動けなかった。自分の掌が、まだ熱い。
(職務でも、嫉妬でも、同じ)
管理官の言葉が残っている。その言葉の中に、自分が最も嫌いな優しさが混じっていた。――動機などどうでもいい、と切り捨てる優しさ。
縫季は、息を吐いた。
棚の奥から、小さな壺を取り出す。青銅の、小ぶりな爵だ。
文様が細かい。蔓草を模した線が、胴をぐるりと囲んでいる。殷の工房が作る器は、どれもこうだ。眠れない夜に使うだけの酒器にも、職人の仕事が宿っている。
帝辛が、そうさせている。
縫季は爵を、少しだけ眺めた。
青銅の冷たさが、指の腹に移る。この器を作った職人を、帝辛は名で呼んだだろうか。血筋ではなく、腕で選んだだろうか。
(……そういう人だ)
縫季は、視線を外した。眺めすぎると、止まれなくなる。
杯を一つ、卓に置く。もう一つは――置かない。
注いだ酒は、澄んでいた。香りは強くない。舌を刺すほどでもない。
縫季は杯を手に取ったまま、すぐには飲まなかった。
「……付き合えとは言わない」
誰に向けた言葉かは、分かっている。
部屋の隅に、静けさだけがある。管理官は、もういない。
縫季は構わず続けた。
「逃げるためじゃない。酔うためでもない」
ようやく一口だけ含む。喉を焼くほどではない。ただ、胸の奥に熱が落ちる。
「切るってさ……思ってたより、静かなんだな」
返事はない。縫季は構わず続ける。
「正しいって言われると、楽だ。理由を考えなくていい」
杯を傾け、もう一口。飲み干さない。
「だから嫌なんだよ。楽な方に、俺の黒さが全部流れてく」
縫季は笑いそうになって、やめた。
「嫉妬でも職務でも、同じ結果ならいい――……そう言われた時、少し安心した」
自分が最低でも、許された気がしたから。
「でも」
杯を卓に置く。指が、ほんの少し震えた。
「俺は、帝辛の悲しみを減らしたい。消したいわけじゃない。背負う数を、増やしたくない」
部屋は静かだ。
縫季は、酒の残った杯を伏せた。飲み切らない。ここで止める。
「……これ以上は、甘えになる」
壺に蓋をし、棚に戻す。青銅の冷たさが、最後に一度だけ指に触れた。
部屋には、もう酒の匂いは残らない。
縫季は背筋を伸ばした。
明朝、動く。切る。選ぶ。
それだけだ。
◆
翌朝。
縫季は、王太子府を出た。
まだ空が白み切る前。門の警備が交代し、人の流れが一度だけ緩む刻だ。
――一人で動くな。
帝辛の声が、昨日のまま耳に残っている。分かっている。正しい。だが、今回は連れて行けない。
連れて行けば、帝辛の名が巻き込まれる。
(背負う数を、増やさない)
縫季は息を整えた。昨夜の酒は残っていない。甘さも、残してきた。
今日は、線だけで歩く。
向かう先は医官府の裏手。帳に残らない集積所。黒闢の手の者が出入りする場所だ。
縫季は衣を替え、香を抑え、顔を伏せて歩いた。塀は越えない。正門から入る。荷の運び手の列に混じり、肩に空の籠を担いだ。
通されたのは裏の納屋。乾いた藁の匂いの奥に、甘い香が薄く混じっている。
縫季は籠を下ろし、片膝をついた。運び手のふりをして作業台の帳へ目を走らせる。
数の羅列。品名は略字。ただ一箇所だけ、墨の濃さが違う列がある。
――紫紅。数量、三。――運搬札:清
書いた者が違う。字の癖が、他の行と合わない。
縫季は帳を元の角度に戻した。見た、という痕跡を残さない。
棚の奥に木箱がある。封を確かめる。開けない。だが、隙間から甘い香が滲んでいた。
(十分だ)
帳の違和感。香の滲み。清朗の印が使われている経路。
証拠は、揃っていない。だが、線は繋がった。
納屋を出るとき、背中に視線が刺さった。縫季は振り返らない。歩調も変えない。
外へ出て、角を曲がって、三つ目の辻。そこで初めて息を吐いた。
(追える)
縫季は王太子府へ戻った。胸の中の決意だけが、硬くなる。
コメント
1件
第31話、読ませていただきました。縫季の「切る」という選択が、管理官との対話でじわじわと固まっていく過程がとても丁寧で、胸が締め付けられました。特に「切るって……思ってたより、静かなんだな」という独白に、彼の覚悟と孤独の両方が滲んでいて、何度も読み返しました。帝辛の悲しみを増やしたくない一心で、一人で動く決断をするところも、彼の誠実さが痛いほど伝わってきます。最後の「追える」という一言に、静かな熱が宿っていて、次の展開が気になりすぎます😢