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こうして始まった、秘密の残業生活。
いったいどれほどの非情な扱いを受け、どんな無理難題を強いられるかと不安だったけれど、実際に始まってみると、なんてことはない。
ただ退勤後に訪れて夕食を作っては一緒に食べる―――言葉のまんまの生活を繰り返すだけだった。
「お手伝いさん」と銘打たれたから掃除や洗濯もさせられるのかと思ったけど、「さすがにそれは自分でやるからいい」と言うし、朝食は夜の残り物ですませてくれるし、昼食は外食に行ってしまうし…これじゃ愛想つかした旦那によりも雑な扱いですんでるぞ!?と、正直拍子抜けしていた。
「ごちそうさまでした。今日も美味しかったよ」
「お粗末様でした」
と夕食を終えれば課長もすぐにさげてくれる。
いいですと遠慮するけど、ちゃんと洗い物も手伝ってくれる。
「じゃあ、紅茶淹れますね」
片付けを終えたあとは紅茶を飲むのが決まった食後の過ごし方。
課長はコーヒーより紅茶派だ。
ストレートからハーブティーブレンドまで…気分や時間に合わせて飲むのがお好み。
「そういえば、昨日お願いしたの持って来てくれた?」
「はいはい。ご命令に従い作ってまいりましたよ」
とわたしは持って来ていた紙袋からタッパーをだした。
今日は課長のご要望により我が家の定番お菓子、バナナマフィンを作ってきた。
生地にペースト状にしたバナナを混ぜた、ほんのりやさしい味がたまらない大好きなお菓子だった。
トースターであたためれば、ふんわりと甘い香りがただよってくる。
表面がカリッとし始めたところで、小皿に乗せた。
「ん、美味しそう。いただきま」
「あ!待ってください!」
「ん?」
「これを忘れちゃだめですよ」
わたしは冷蔵庫で冷やしていたクリームをスプーン一杯にすくってマフィンの横に添えた。
「おいしいですよ!ほっぺたが落ちてしまいます」
課長は心なしか恐る恐る口にふくんだ。
わたしも大きくぺろり。
うん、美味しい!
ひさしぶりに作ったけど、やっぱり絶品だ。
課長の感想はどうかな?
と見やると、課長の噛む動きは鈍かった。
「お口に合いませんでした?」
「ちょっと甘いね…」
「え?」
「…いや、かなり」
「ええ!ほんとうですか??」
「うん…クリームは付けない方がいいかな」
「そうですかぁ。うちはクリームがないとブーイングが起きるんですけどねぇ」
「ほんとに?このマフィンだけでもかなり甘いけど」
「そうですか?実はバナナをペーストにするときにハチミツで混ぜてるんですよね。その方がずっと美味しくなるから」
「…キミの実家って、かなり甘党揃いなんだね」
そうかなぁ?
課長ってお菓子も好きなくせに甘さ加減にはうるさいよな。男の人だからかな。
料理は完全無欠だけど、お菓子の評価はいまいちだよなぁ…。
よし、今度はドーナツを作っていこう。シュガーコーティングにキャラメルソースをまぶした自信作だ。
なんて意気込むくらいに、わたしはけっこうこの残業生活を楽しんでいるのだった。
それに、課長はちゃんと代償も払ってくれていた。
「さて、じゃあ今日のレッスンといきますか」
マフィンを途中にして、課長はノートパソコンを開いた。
これは会社のコンピューターとアクセスできるもので、ここでわたしが今やっている仕事のデータを見ることができた。
食後はこうしてわたしの残業の処理にかかる。
処理は課長にお任せするのではなく、課長に横で教えてもらいながら、わたしが処理をする。
「ここをこうしてこの計算式を反映させれば、ほら」
「わーすごーい!楽になった!」
「この手のデータ処理は、たいていこの方法でまかなえると思うよ。覚えて損はない」
エクセルの基礎からそれを踏まえた応用と、課長が教えてくれることはひとつとして無駄がない。
少しずつだけど、スキルアップしているのが自分でもわかって覚えるのが楽しくなってきていた。
「…にしても、毎日毎日仕事押し付けて。キミの先輩たちってほんとに人の血流れてるの?」
「ふふふ、きびしいですよねぇ」
「ですよねぇ、ってノンキだねキミも。たまにはガツンって言ってやればいいのに」
言えるものなら言いたいけど…それはわたしの性格上、無理だと思います…。
わたしが黙っていると、課長は焦れたように溜息をついた。
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