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「ただ今戻りました。今日も良い子にしていましたか?」
玄関の扉が静かに開かれる。
十分前に帰宅コールがあった。
当然のように時間ぴったりだ。
夫は時間に厳密すぎるくらい緻密な行動する。
「おかえりなさい。良い子にしていたかどうかは、旦那様が一番良く御存じでしょう?」
指示されている言葉遣いで返事をすれば、夫は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「そうですね。今日も一日。誰とも会いませんでしたね。宅配便の対応も良かったですよ。回覧板の受け取りもしなかった。これは特に評価しましょう」
宅配便の対応は居留守を使った。
大変申し訳ないが、普段はきちんと夫が引き取りをしてくれているので、今回限りの暴挙ということで勘弁していただきたい。
たまたま時間指定が不可の品物だったのだ。
床に置かれた鞄を所定の位置へ置こうと腰を屈めると、そのまま抱き上げられた。
どちらかというと細身の体にどれだけの力があるのだろう。
筋肉は綺麗についているので、男性というものが今ひとつよくわかっていない自分が考える以上に男らしいのかもしれない。
伏せられた目尻に軽い口づけを落とせば、穏やかさを湛えた目尻は喜びに分かりやすく下がった。
「宅配便は明日再配達をお願いしたし、回覧板はもらっておきました。今度から是非奥様にお届けをお願いしたいと伝えたら、快諾してくださいましたよ? 私が嫉妬深いせいで御迷惑をおかけして申し訳ありませんね、と告げたら、羨ましい限りです! と力説もされましたね」
「ありがとうございます」
お隣さんもきっと喜んだだろう。
何しろ今年八十歳を迎えたというお隣の御夫人は、夫のファンクラブ会長だ。
もしかしたら夫に会いたくて、自分の夫の尻を叩いて回覧板を届けに行かせたのかもしれない。
夫を完璧に尻に敷いていると、引き籠もりがちな自分でも知っている。
夫は世間様のイケメン度で換算すると120%を軽く上回るようだ。
御近所の奥様方とは夫の意を汲んで薄い付き合いだが、会う都度に悶えられる。
「今日も良い匂いですね。夕食は何ですか?」
「夏野菜ごろごろ五穀米カレーとツナ缶と刻みタマネギのサラダ。冷製コーンポタージュにしてみたわ」
「頑張ってくれたみたいですね。お疲れ様でした」
「普段は貴男に丸投げですから……たまには、ねぇ」
夫が数少ない外出する日には、私が作るという決め事になっている。
普段は夫が料理をし、気を抜くと太りやすい私の体型をしっかりコントロールしていた。
抱えていた鞄を所定の位置に置き、椅子へ姫抱っこ移動のあとで、座らせてもらう。
食卓の準備は既に整っていた。
こういうとき、帰宅時間を明確に伝えてくれる有り難さをしみじみ感じる。
背広の上着をハンガーへかけ、ネクタイを緩めた夫はテレビの電源を入れた。
「……飽きないねぇ」
「麻莉彩《まりさ》!」
「……よく飽きませんわねぇ」
「飽きるわけないでしょう。万が一見落としがあったら、後悔してもしきれませんからね」
画面に映るのは夫が外出していた間の私の映像記録だ。
当然音声もついている。
付け加えるなら、夫が私を見いだしてからざっと十年分のデータがパソコンの中に保管されていた。
八十インチというテレビというには大型サイズの画面が六分割されており、それぞれに私の姿が映り込んでいる。
足元から見上げる角度の動画を見て、ムダ毛処理が今一つなのを発見してしまった。
「おや。剃り忘れですね」
夫も同じ動画を見ていたようだ。
私が額に皺を寄せたので、チェックしたのだろう。
「すみません」
「麻莉彩が謝罪することはありませんよ。私のミスです。今夜は念入りにケアしましょうね」
「……はい」
全身脱毛はなかなか慣れないが、致し方ない。
初めは毛の生え始めのちくちく感が辛かったが、慣れればほとんど気にならなくなった。
「おや、覚えたんですね?」
乙女ゲームをプレイする私の姿を見て、夫がにこやかに微笑む。
「歌って欲しそうにしていたから、頑張ってみましたよ?」
動画の中で私が歌っているのは攻略対象が全てハーフでヤンデレという、何ともマニアックな乙女ゲームのオープニングテーマだった。
愛してる、あなたが獣とのハーフでも♪
愛してる、あなたがどんなに病んでいても!
という、突っ込みどころ満載な歌詞なのだから恐れ入る。
オープニングからのかっ飛ばしっぷりは、数々の乙女ゲームを攻略してきた猛者たちをも唸らせるもので、そこそこの乙女ゲームプレイヤーである私も数え切れない失笑をしている代物だ。
ちなみに昨年度プレイ時間が一番長い乙女ゲームの、堂々一位を取ってもいた。
タイトル『闇(病み)と獣(人間)の交わりし日常』
通称『やみけも』
乙女ゲーというよりは、男性向けのホラー十八禁ゲームを連想させるタイトルだと思ったのは私だけではないはずだ。
「どこまで攻略できましたか?」
「八割方でしょうか……うー。趣味系の喋り口調は何時もどおりじゃ駄目?」
夫は私が自分と似た口調で話すのを好む。
ただその口調は本来私が使っているものと違うので、時々疲れてしまうのだ。
特に趣味の話は慣れた口調が楽だった。
「んー。仕方ないですね。よしとします。何時もその口調でいい、というわけではありませんから、その都度確認してくださいね?」
「ありがとー。必ず確認します!」
食事中にも構わずに夫の頬へ私の髪の毛を擦り付ける。
丁寧なブラッシングと夫が厳選した高級シャンプー他、あらゆるヘアケアグッズのおかげで、長い黒髪はなかなかの艶を保っていて、夫の頬にも気持ち良いらしい。
頭を撫でられるので、話を続ける。
「残すは最後の一人のエンディング攻略。そのあとにハーレムエンドか、トゥルーエンドで終わりだと思うんだよねー」
「おや珍しい。攻略サイトを見なかったんですか?」
「……使ってるサイトが突然見られなくなったの!」
「ああ、連絡できなくてすみませんでした。荒らされそうな気配があったので、さくっと閲覧設定の変更をしたんです。連絡してくれれば即座に認証しましたよ?」
「……仕事中に申し訳ないし」
「麻莉彩からの連絡なら二十四時間最優先ですから、今度から躊躇わずにしてくださいね」
「私に攻略のセンスがあれば、見ないでフルコンプできるんだけどなぁ」
攻略サイトを見ながら攻略しても、何故かやり直しを強いられる迂闊っぷりは、結構荒む。
夫に言わせれば悶える私も、それはそれで萌のポイントらしいのでどん底まで沈んだりはしないのだが。
「好きなゲームで無駄なストレスをかけてどうするんですか。自分の楽しみを最優先でプレイすればいいんですよ」
体の向きを変えた夫は、膝の上へ載せたノートパソコンに向かって手早くタイピングをする。
私が攻略サイトを閲覧できるように、最優先で認証をしているのだろう。
貴女は私の妻ですから、特別扱いは当たり前ですよ? ……と夫は言うけれど、なるべく目立ちたくないので、守るべきルールは守るようにしてもらっている。
「そういえば、新作ゲームが出ましたね?」
「あーそうだね。すぐやりたいんだけどさぁ。『やみけも』のコンプが先かな」
予約特典も厳選して注文してある。
タイトルは『永遠を統べる者たちとの宴』
事前投票では不人気キャラだったが、私は二次元に限って真面目系クズが大好きなのだ。
彼の背景を知りたくて即断で予約した。
ジャンルはこれまた乙女ゲー。
そして、猟奇殺人がテーマで、巷では『やみけも』を超える欝ゲームになるという前評判が広まっている。
キャラクター紹介こそ一通りされていたものの、それ以外の情報が極端に絞られていた。 そんなところも、乙女心を擽るのだ。
「では、私が先にプレイしますね」
夫は私が興味を持つもの全てを先回りして確かめる癖がある。
そして、私が不愉快になると判断すれば、事前に教えてくれるのだ。
夫の判断は何時でも正確なので、どれほど首を長くして待っていたゲームでも、駄目ですね、と言われれば素直に諦めた。
「うん。よろしく」
「攻略サイトはどうしますか?」
「うーん。時間があったらお願いしようかなぁ。今回も課金制?」
「当然ですよ。貴女以外に無料で情報提供をするなんて冗談でもごめんですね」
夫が私のためにと作るゲーム攻略サイトは人気が高い。
特に発売から短時間で、メーカーが直接クレームめいたメールを送ってくるような完璧攻略をするので、一部マニアの間では有名だ。
また攻略後の感想や批評も読み応えがあると賞賛されて久しい。
何より限定配信される攻略中の実況動画が最高にクール! と囁かれていた。
顔出しはしておらず、声だけの動画なのだが、何時聞いても安心できる声と多くのコメントが寄せられている。
課金制にもかかわらず、アクセス数は常にランキング上位に入っていた。
私の趣味に関する出費が全て賄われているほどなのだ。