テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
橘靖竜
#戦乙女
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あの人は、
草原の風そのものだった。
誰にも縛れず、
誰より自由で、
誰より孤独だった。
——だが私は、
あの人のようにはなれなかった。
風は、どこまでも草を揺らしていた。
馬上の青年は、黙ってその景色を見つめていた。
空は広い。
あまりにも広すぎて、
人の悩みなど、風に吹かれる砂粒ほどにも思えなくなる。
遠くには、父の軍勢の天幕が見えた。
白いゲルが点々と並び、
無数の馬が草を食んでいる。
河は銀の帯のように草原を裂き、
夕陽を受けて静かに光っていた。
青年は手綱を緩める。
馬は鼻を鳴らし、
乾いた土の匂いを運んできた。
「世界は広いな……」
誰に言うでもなく呟く。
少年の瞳には、
まだ征服者の冷たさはなかった。
ただ、
地平線の向こうに何があるのかを知りたい――
そんな旅人のような光が宿っていた。
あの人は言った。
「天の下に、我らの馬が届かぬ土地はない」と。
だが青年には、
滅ぼした国々の財宝よりも、
この風の方が好きだった。
草原を渡る風。
鳥の声。
焚き火の煙。
母が幼い弟たちを呼ぶ声。
それらは、
戦の勝利よりも確かなものに思えた。
丘の下では、
若い兵たちが笑いながら馬を走らせている。
その姿を見ながら、
青年はふと考える。
――いつか、自分もあの人のようになるのだろうか。
血に濡れた大地を進み、
無数の民を従え、
世界を震え上がらせる王に。
だが、その時。
草原を吹き抜けた風が、
少年の長い髪をさらっていった。
青年は目を細め、
遥か西の空を見つめる。
そこにはまだ、
誰も知らない世界が広がっていた。
これは
ヴァンガルド帝国がまだ統一されていないころ
そのはるか東方の草原での話
あの人の父――
つまり、私の祖父は、
十三の草原部族を束ねる長だった。
人々は敬意を込めて、
彼を“ハーン”と呼んだ。
だが、この世界は、
草原の民だけで出来ていたわけではない。
南には巨大な農耕国家――チャイ王朝があった。
高い城壁を築き、
絹をまとい、
文字を操る民。
彼らは決して、
草原を一つにはさせなかった。
部族同士を争わせ、
憎しみ合わせ、
互いの血で互いを縛る。
それが、
チャイ王朝の草原支配だった。
ある春の日。
父――テムジンの婚礼の話が持ち上がった。
祖父は父を連れ、
遠方のコンギラト族を訪れた。
そして、族長の娘ボルテとの婚約を決める。
草原では、
婚姻は愛だけではない。
それは部族を結ぶ盟約であり、
生き残るための約束だった。
祖父は満足して帰路についた。
だが、その途中。
立ち寄ったタタル族の宴で、
毒を盛られた。
祖父は馬の上で苦しみ始めたという。
口から血を流しながら、
なお部族へ帰ろうとした。
だが、
草原の風は、
ひとたび倒れた男を待ってはくれない。
数日後、
祖父は息を引き取った。
それを機に、
全てが崩れた。
新たなハーンは、
その復讐を恐れた。
「災いの芽は早いうちに」
そう考えたのだろう。
父の一族を部族から追放した
配下の遊牧民たちは去っていった
昨日まで忠誠を誓っていた男たちが、
家畜を連れ、
静かに別の旗のもとへ移っていく。
草原では珍しい話ではない。
人が離れれば、
それだけで国は滅ぶ。
残されたのは、
母と幼い子供たちだけだった。
父はまだ少年だった。
だが、
飢えた草原は、
少年が大人になるのを待たない。
魚を獲り、
鼠を追い、
時には野草を食べて生き延びた。
そして、
父が成長するにつれ、
周囲の部族は恐れ始めた。
――あの男は、
いずれ祖父の後を継ぐ。
そう思ったのだ。
ある日。
父が狩りで不在の時を狙い、
メルキト族が天幕を襲撃した。
女たちの悲鳴が、
夜の草原に響いた。
母ボルテは、
そのまま連れ去られた。
父は激怒した。
だが、
まだ一族だけでは戦えなかった。
そこで父は、
亡き祖父の盟友オン・ハーンを頼り、
そして、
幼き日の義兄弟――ジャムカに助けを求めた。
ジャムカは応じた。
彼は笑いながら、
父の肩を叩いたという。
「テムジン。
お前の女を取り返しに行こうじゃないか」
三つの軍勢は、
夜明け前の草原を駆けた。
馬蹄が大地を震わせ、
矢が空を覆い、
メルキト族の天幕は炎に包まれた。
そして父は、
母を取り戻した。
――その後に、
私が生まれた。
「やあ、ボルテ。ジュチに乳を与えているのかい」
夕暮れの風が、
天幕の布を静かに揺らした。
母は幼い私を抱いたまま、
振り返って微笑む。
「ええ、そうよ、ジャムカ。もう終わったわ」
「相変わらずきれいだな、お前は」
「おいおい」
父が苦笑した。
「夫の前で妻を口説かないでくれ」
ジャムカは声を上げて笑った。
「あはは、冗談だ」
そう言って、
彼は父の隣へ腰を下ろす。
夕陽に照らされた横顔は、
草原の若き英雄そのものだった。
鋭い目。
長い髪。
無駄のない体。
馬に乗れば、
誰よりも風が似合う男だった。
やがて、
ジャムカは笑みを消した。
「……それよりテムジン。大事な話がある」
父も表情を改める。
外では馬の嘶きが聞こえていた。
遠くで羊飼いの笛が鳴る。
草原の夜が近づいていた。
「長たちが、お前を一族の長として認めるそうだ」
父は目を見開いた。
「本当か……?」
「ああ。今度の部族会議に出てもらう」
しばらく、
父は言葉を失っていた。
かつて追放され、
飢え、
見捨てられた少年。
その父が、
再び草原の中央へ戻ろうとしていた。
やがて父は、
静かに頭を下げた。
「ありがとう、ジャムカ。感謝している」
「なに」
ジャムカは肩をすくめる。
「これだけの所帯に再興させたんだ。当然だろ」
父は苦く笑った。
「君のおかげだ」
「俺だけじゃないさ」
ジャムカはそう言ってから、
少し声を落とした。
「だがな、テムジン」
「なんだ?」
「どこの誰ともわからん奴らまで集めるのはどうかな」
父は黙って聞いていた。
当時の父の陣営には、
行き場を失った者たちが集まっていた。
敗残兵。
奴隷。
部族を追われた者。
親を失った孤児。
草原では、
血筋こそ全てだった。
だが父は、
そういう者たちを平然と受け入れていた。
「人がいるなら、
俺のところから回してやる」
ジャムカは続けた。
「信用できる連中だ」
だが父は、
ゆっくり首を振った。
「いや、彼らで大丈夫だ」
「能力もある」
ジャムカは少し眉をひそめる。
「そうか……」
そして、
呆れたように笑った。
「あと、何でもかんでも人に分け与えるな」
「食料も馬も、
草原では命だぞ」
父は苦笑した。
「そうだな」
「まったく……」
ジャムカは深く息を吐き、
それから柔らかく笑った。
「でも俺は、
そういう気前のいいお前が好きだ」
父も笑った。
焚き火の火が、
二人の顔を赤く照らしていた。
幼かった私の思い出にも
ジャムカは優しい叔父のような存在だった。
よく肩車をしてくれたし、
小さな木の弓まで作ってくれた。
父と並んで笑う姿を見れば、
二人が敵になるなど、
誰にも想像できなかっただろう。
今から思えば――
ジャムカは、
父を恐れていたのかもしれない。
いや。
もっと正しく言うなら、
父という存在が、
草原そのものを変えてしまうことを。
草原には、
草原の掟があった。
良い家柄に生まれた者が上に立つ。
弱い者は強い部族に従う。
敗れた者は奪われる。
それが当たり前だった。
誰も疑わなかった。
いや、
疑うことすら出来なかった。
草原とは、
そういう世界だったからだ。
だが父は違った。
父は、
血筋のない者を側に置いた。
行き場のない者に、
馬を与えた。
敗れた敵すら、
能力があれば家臣にした。
部族ではなく、
“人”を見ていた。
それは、
多くの草原の男たちにとって、
理解し難いものだった。
ジャムカもまた、
その一人だったのだろう。
彼は誇り高い男だった。
由緒ある血を引き、
強く、
美しく、
誰より草原の英雄らしかった。
だからこそ、
父のやり方が理解できなかった。
いや――
理解できてしまったからこそ、
恐れたのかもしれない。
もし父のやり方が正しいなら。
もし、
血ではなく人が人を従える時代が来るなら。
それは、
これまでの草原の全てを否定することになる。
長たちも。
古い掟も。
誇りも。
生き方さえも。
父は、
剣だけで草原を変えたのではない。
人の集め方を変えたのだ。
だから皆、
あの人に惹かれた。
そして同じだけ、
恐れた。