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風は荒れていた。
草は波のようにうねり、
黒い雲が空を低く覆っていた。
その日、一人の男が、馬を飛ばしてジャムカの陣へ駆け込んできた。
「……見つかりました」
男の声は震えていた。
ジャムカは黙って立ち上がる。
運ばれてきたものを見た瞬間、
周囲の空気が凍った。
弟だった。
だが、それはもはや人の形をしていなかった。
顔は潰れ、
身体には縄で引きずられた痕が残り、
喉は深く裂かれていた。
誰も言葉を発せなかった。
ジャムカだけが、静かにその亡骸の前へ膝をつく。
やがて彼は低く問うた。
「……やったのは誰だ」
「オン・ハーンの領地で馬を盗んだところを見つかり……」
男は唾を飲み込む。
「その場で処刑されたとのことです」
沈黙。
風だけが、天幕を叩いていた。
ジャムカはゆっくりと立ち上がる。
その目には怒りよりも、
むしろ冷たい失望が浮かんでいた。
「血は贖ってもらう、賠償を要求する使者を」
その言葉は、静かだった。
だが草原では、
それだけで戦が始まる。
オン・ハーンは要求を拒絶した。
「盗人に払う金などない」
その返答が届いた時、
ジャムカはただ一言、
「そうか」
とだけ呟いた。
戦は短かった。
ジャムカ軍は電撃のように襲いかかり、
オン・ハーンの軍を打ち砕いた。
敗れたオン・ハーンは草原を追われ、
その一族は離散した。
だが――
この勝利は、別の男にとって最悪の結果となった。
父だった。
父は長く、
タタル族への報復の機会を待っていた。
一族を滅ぼされ、
その怨念だけを胸に、
ここまで這い上がってきた。
そのための友軍が、
今、失われたのだ。
「なぜだ……」
父は低く呟いた。
「なぜ、今なのだ……」
ジャムカは変わっていた。
部族同士の争いを終わらせ
大ハーンになろうとしていた
チャイ帝国と深く結びついているタタル族すら取り込み、
草原を一つの秩序へ導こうとしていた。
だが、その道に――
タタル族討伐を掲げる
父は邪魔だった。
ある夜。
激しい風の中、
父とジャムカは向かい合っていた。
焚き火の火が、二人の顔を赤く照らしている。
「もういいだろ、テムジン」
ジャムカは静かに言った。
「タタル族を討てば、チャイ王朝が我らに牙をむける」
「掟を守れ、機会はいつか訪れる」
優しく。
まるで弟を諭すように。
かつてと同じ声で。
だが――
父の中で、何かが切れた。
「黙れ!!」
怒号が夜を裂いた。
馬たちが怯え、
兵たちが振り返る。
父はジャムカの胸倉を掴んだ。
その目は、獣のようだった。
「あ奴らのために……!」
「父を失ったわが一族がどれほどの目にあったのか……!」
「お前などにわかるものか!」
ジャムカは何も言わない。
父の手は震えていた。
「荒野をさまよい、泥水をすすり……!」
「一匹の鼠を家族に分け与えるみじめさが……!」
「お前なんぞにわかってたまるか!!」
静寂。
火だけが、ぱちりと音を立てた。
長い沈黙の後、
父は悟った。
ジャムカは、もはや友ではない。
草原の掟を守る者であり、
父が変えようとしている世界そのものだった。
父は兵を挙げた。
ジャムカもまた、
十三の部族すべてを動員して迎え撃った。
かつて義兄弟と呼ばれた二人は、
ついに草原を二つに割る戦へと向かっていった。
戦いは、ジャムカの勝利に終わった。
父の軍は打ち破られ、
草原には、敗兵たちの死体が無数に転がっていた。
風は血の臭いを運び、
黒鷲たちが低く空を旋回している。
ジャムカは勝った。
父の復讐を退け、
タタル族を味方につけ、
ついに草原最大の勢力となった。
十三の部族長たちもまた、
この勝利によって、
ジャムカこそが次代の大ハーンに最も近い男だと認め始めていた。
戦の後。
広い草原に、大宴会が開かれた。
羊が焼かれ、
馬乳酒が振る舞われ、
勝利の歌が夜空へ響く。
部族長たちは笑い、
戦士たちは武勲を語り合った。
だが――
その宴の中央に並べられたものを見た瞬間、
誰もが言葉を失った。
七十。
七十もの巨大な鉄釜だった。
釜の下では火が焚かれ、
赤々と炎が燃え上がっている。
中では湯が煮え立ち、
ぼこぼこと不気味な音を立てていた。
父に味方した将たちが、
縄で縛られ、引き立てられてくる。
その数、七十。
草原に、ざわめきが広がった。
「ジャムカ様……?」
若い部族長の一人が、
戸惑うように口を開く。
ジャムカは静かに振り返った。
その顔に怒りはなかった。
むしろ、凪いだ湖のように冷たかった。
「草原は弱さを許さぬ」
誰も動かなかった。
「今日、ここで示さねばならぬ」
「裏切りが、何を招くかを」
父に味方した男の一人が叫ぶ。
「お、お待ちください!」
「我らはただ、テムジンに従っただけ――」
言葉は最後まで続かなかった。
兵士たちが男を持ち上げ、
煮えたぎる釜へ叩き込む。
絶叫。
肉の焼ける臭い。
釜の湯が激しく跳ね、
周囲に熱湯が飛び散った。
宴は静まり返っていた。
誰も杯を口にしない。
ただ火の音だけが響いている。
ジャムカは、その光景を黙って見つめていた。
その目には、迷いも、憐れみもなかった。
敗北の夜。
草原には冷たい雨が降っていた。
父は、敗残兵たちをまとめながら、
黙って馬を進めていた。
かつて付き従った戦士たちの多くは死に、
残った者たちも傷だらけだった。
母は幼い弟たちを抱き、
ボルテは何も言わず父の背を見つめている。
誰も敗北について語らなかった。
語れば、
心まで折れてしまいそうだったからだ。
父は再び逃亡者となった。
かつて父イェスゲイを失ったあの日のように、
家族だけを連れ、
草原を彷徨う日々へ戻ったのだ。
だが今回は違った。
父の目には、
消えぬ炎が宿っていた。
ジャムカ。
あの男だけは許さぬ。
その想いだけが、
父を立たせていた。
やがて一行は、
チャイ王朝との国境近くへ辿り着く。
乾いた風が吹く荒野だった。
遠くには、
チャイの砦が蜃気楼のように霞んで見える。
そこで父は、
思いがけぬ男と再会した。
オン・ハーンだった。
かつてジャムカに敗れ、
草原を追われた男。
だが、その目にはまだ獣の光が残っていた。
「生きていたか、テムジン」
父は馬を降りる。
「……そちらこそ」
二人はしばらく無言で笑った。
敗者同士の笑いだった。
オン・ハーンは焚き火へ羊肉を放り込むと、
低い声で言った。
「どうも、タタル族がジャムカの誘いに乗ったせいでな」
「チャイ王朝と揉め始めたらしい」
父の目が細くなる。
「……本当か」
「ああ」
オン・ハーンは酒をあおった。
「連中、調子に乗って国境で略奪を始めたそうだ」
「チャイも、さすがに黙ってはいまい」
炎がぱちりと爆ぜる。
父は黙ったまま火を見つめていた。
やがてオン・ハーンは、
まるで何気ないことのように言った。
「完顔襄に会ってみるか?」
父が顔を上げる。
チャイ王朝。
草原の民にとって、
巨大すぎる怪物。
その皇帝に近い人物の名が、
静かな夜に響いた。
オン・ハーンは口元を歪める。
「敵の敵は、味方になることもある」
父はしばらく答えなかった。
炎だけが揺れている。
やがて、
父はゆっくりと口を開いた。
「……会おう」
その声は静かだった。
だが後に、
草原すべてを巻き込む嵐の始まりとなる言葉だった。