テラーノベル
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八年前のあの夜のことを、彼は今も覚えている──
夜の谷は、音を失っていた。風がないわけではない。司祭館の周囲では夜風が草を撫で、虫が声鳴いている。だが、それ以外には何もない。巡礼街道から離れた丘の上のこの場所では、夜更けに人の姿を見ることなどほとんどなかった。
だからこそルシアン・モンフォールは、何かの違いだと思った。
谷底で、赤い光が揺れている。闇の中で、炎だけが異様なほど鮮明に見える。
「──あれは……」
モンフォールは目を細めた。炎は一つではない。あちこちから噴き上がり、黒煙を夜空へと吐き出している。やがて炎の向こうに見覚えのある輪郭が見えた。
「聖ミレジア修道院が……燃えているのか」
聖ミレジア修道院は、世俗の喧騒から隔絶された谷間に建っている。周囲には人家がなく、巡礼街道からも遠い。出火に気づいた者は、おそらくいないだろう。
モンフォールは思案した。ここから修道院までは、歩いても半刻とかからない。古い石畳の参道を下っていけば、たどり着ける距離だ。ならば、助けに行くべきだろう。司祭として。人を救う者として。だが──
モンフォールは動かなかった。あの修道院には、王女がいる。
ファミーユ家の圧力によって王位継承権を放棄し、三歳の頃から修道院で暮らしている少女、セレスティーヌ王女が。もしも、あの炎がただの事故ではなかったとしたら。もしも放火だったとしたら。犯人は、まだ修道院の近くにいる可能性が高い。
モンフォールは、燃え盛る修道院をじっと見つめた。
助けに行けば、自分も巻き込まれる。犯人が王女を狙った者だったとしたら、なおさらだ。そしてもし仮に、自分が王女を救ったとして、その事実を知る者が増えればどうなる?
モンフォールの鋭い目が、炎を映して細くなった。
──明朝まで様子を見た方がいいだろう。神など頼りにならないのだからな。
彼は修道院から視線を逸らす。
神は人を救わない。生き延びたければ、自身の手で正しい選択をするしかない。何を選び、切り捨てるのかを常に考えながら──
背中に炎の気配を感じながら、彼はもと来た道を戻る。
彼の住まう司祭館は、遠目には小さな礼拝堂のように見える。白灰色の石壁は夜の闇に沈み、尖った屋根の輪郭だけが淡く浮かんでいる。正面には細長い窓がいくつも並び、色ガラスを組み合わせたステンドグラスがそれぞれの窓に嵌め込まれている。室内の灯りが色ガラスを通して滲み、青や琥珀、淡い緑の光が窓辺にぼんやりと浮かんでいる。その柔らかな輝きだけが、静まり返った夜の丘で、モンフォールの道しるべとなっていた。
◇
翌朝、谷間には白い霧がかかっていた。
モンフォールは護身用の武器を腰に下げ、修道院へと向かった。
やがて、朝靄の向こうに、聖ミレジア修道院の焼け跡が姿を現した。かつて建物を覆っていた屋根は崩れ落ち、黒く煤けた石壁だけがところどころ残っている。窓枠は焼け落ち、壁の隙間からは折れた梁が突き出していた。朝の光を受けても、焼け焦げた壁面は生気を取り戻さない。地面には炭化した木材や砕けた石が散らばり、ところどころから白い煙が細く立ちのぼっている。夜の炎が消えたあとも、木や肉の焼けたあとの臭いが濃く残り、修道院だった場所はまるで巨大な墓標のように静まり返っていた。
焼け跡を歩きながら、モンフォールは死体を調べていった。
やはり、そうだ。昨夜、胸の内で抱いた疑念は正しかった。これは事故ではない。放火だ。それも、ただ燃やしただけではない。死者の多くは、焼ける前に殺されている。その事実は、遺体を見れば分かった。彼はかつて従軍司祭を務めたことがあった。
その経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。当時は死体の検分ばかりで、うんざりしたものだ。だが、あの経験がなければ、この場で何が起きたのか判断できなかっただろう。モンフォールは、わずかに息を吐いた。これは略奪目的の犯行ではない。金品を奪うためなら、全員を殺す必要などない。モンフォールは視線を巡らせる。
「全員殺害……つまり、誰を狙ったのかすらも知られたくない、ということか……」
目的は謀殺。そして、標的はおそらくただ一人。セレスティーヌ王女だろう。
モンフォールは焼け跡から出た。木々の合間から、小鳥の鳴き声が聞こえる。惨劇など知らぬような、高く澄んだ穏やかな声だ。
「……人間の争いごとなど、知ったことではないのだな」
思わず乾いた笑みが漏れる。
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そのとき、モンフォールの目に、小さな建物が映った。
焼け落ちた修道院の一角に、黒く煤けた建物がぽつりと残っていた。石造りだったから、焼失を免れたのだろう。古びた木製の扉にも煤が付着しているが、焼け落ちてはいない。朝の淡い光の中で佇むその姿には、華やかさも荘厳さもなく、ただ、長い年月を耐えてきた建物だけが持つ静かな重みがあった。
「あれは……確か、旧礼拝堂か」
旧礼拝堂は、現在では地下の納骨堂以外ほとんど使われておらず、人が近づくこともないと聞いている。
モンフォールは、そちらへ向かって歩き出した。
野草が風に揺れている。その葉には、小さな虫が止まっていた。あまりにも平穏な光景だった。つい先ほどまで、死者に囲まれていたことが嘘のようだ。
モンフォールは旧礼拝堂の扉を開けた。
薄暗い屋内には、古びた祭壇がある。長い年月、人の手が入っていないことが分かる。しかし、何故か胸騒ぎがした。旧礼拝堂に足を踏み入れたモンフォールは、思わず目を見開いた。
「これは……」
視線の先に、地下へ続く納骨堂の扉がある。そこに、一人の修道女が倒れていた。石造りの頑丈な扉を守るような姿勢で、若い修道女が息絶えている。彼女の死体は焼かれていなかった。深手を負い、しかし襲撃者の目を逃れ、旧礼拝堂に逃げ込んで、力つきたのだろう。
モンフォールは足元を見た。
床に、新しい足跡が残っている。足跡は、二人分。ひとつは大人。そして、もうひとつは子供のものだ。足跡は、納骨堂の扉の前まで続いている。石造りの扉には隙間がなく、煙を遮断することもできるだろう。
モンフォールはしばらく、その足跡を見つめていた。
神の奇跡──そんな言葉が、脳裏をよぎる。それは彼の信条に反する言葉だった。もしもこの奥に生存者がいるのなら、緊急時に的確な判断を下した人間の功績だ。これは断じて、神の起こした奇跡ではない。それでもモンフォールは、神に感謝せずにはいられなかった。
モンフォールは修道女の死体を脇に寄せ、石の扉を開く。
扉の向こうには、地下へ続く階段があった。薄暗い納骨堂には、神聖魔術による小さな灯りがともっている。モンフォールは階段を下りていった。
「私は司祭モンフォール。巡礼街道沿いの館に住んでいる。生きている者がいるのならば、返事をしてほしい」
声が、石壁に反響する。一歩、また一歩。モンフォールは静寂の中を進む。やがて、かすかな声が聞こえた。子供の声だ。モンフォールは、声のした方へ向かった。
柱の陰に、小さな少女がうずくまっていた。赤毛混じりの金髪の、可憐な少女だった。彼女は煤で顔を汚し、怯えた目でこちらを見ている。それでも淡い青の瞳の奥には、気丈さが残っていた。
「無事だったか」
モンフォールは、ゆっくりと手を差し出した。
「君を助けに来た。一人で立てるか?」
少女は、差し出された手を見た。だが、その手を取らなかった。柱に手を添え、自分の力で立ち上がる。
「大丈夫……」
「ここは暗くて歩きにくい。私の手を取りなさい」
そう言って、もう一度手を差し出す。
「……名前は何という?」
少女はしばらく黙っていたが、やがて、そっとモンフォールの手を握る。
そしてもう一方の手を、首から下げたペンダントへと伸ばす。小さな装飾品が、納骨堂の灯りを受けて光る。そこには彼女の名前と身分が刻まれていた。
少女は俯いたまま、名を告げる。
「私はセレスティーヌ……この国の王女です」
その瞬間、モンフォールの中で何かが静かに動き始めた。
セレスティーヌ王女は、生きている。しかも、自分が最初に発見した。それはただの偶然だった。だが、偶然だからこそ、価値がある。
モンフォールは少女の手を握ったまま、出口へ向かって歩き出した。その横顔には、いつもの冷静さが戻っていた。けれど、その胸の内では、すでに一つの計算が始まっていた。
納骨堂を出た瞬間、セレスティーヌは立ち止まった。扉の脇に横たわる修道女の死体に駆け寄る。
「ジャンヌ!」
それが修道女の名前だったのだろう。セレスティーヌは何度もその名を呼びながら、修道女を揺さぶった。やがて、かすかな声が漏れる。
「どうして……ジャンヌ……」
モンフォールは幼い王女の肩に手を置いた。
「……シスター・ジャンヌはこの世での役目を終え、旅立っていった。だが、我々の向かう場所は彼女の後ではない。行こう」
セレスティーヌは無言で立ち上がり、モンフォールとともに旧礼拝堂を出る。
その向こうに広がっていたのは、朝の谷だった。そして、焼け落ちた修道院。黒く焦げた壁に、崩れ落ちた屋根や焼けた木材、そこに残された数えきれない死の痕跡。
セレスティーヌは足を止めた。モンフォールの手を握る小さな手が、震えている。少女は、目を逸らせないまま修道院の残骸を見つめていた。涙が、その頬を伝っていく。
「王女なんかに……生まれたくなかった。私が王女だから……みんな……」
その言葉の続きを、少女は言えなかった。
モンフォールは、幼い王女を見つめた。胸の奥に、わずかな苛立ちが湧く。彼女の嘆きが、かつての自分自身の記憶を呼び起こしたからだった。
……ルシアン・モンフォールは、辺境の寒村に生まれた。みすぼらしい教会の、貧しい神父の息子として。
その夜、十歳のルシアンは、妹のスリジェを抱きかかえていた。妹の身体は熱に浮かされ、ひどく弱っている。ルシアンは必死で父に訴えた。
「街の医者なら、スリジェの病気を治せるんだろ? 俺が街まで連れて行く。だから──」
だが、父は悲しげに首を振った。
「ルシアン……それは無理だ。医者に払う金がない」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
金がない。だから、助けられない。妹を。命を。
神に仕える父の言葉は続く。
「……あったとしても、それは村の人々を救うために使わねばならない。私は神に仕える身だ。そして、お前たちも……」
「ふざけるな!」
ルシアンは叫んだ。怒りの限りに叫んだ。
「何が神だ! 何が救いだ! 信徒に犠牲を強要するなんて、どんだけ傲慢なクソ野郎なんだ!」
その後の記憶は、途切れ途切れだった。
村はずれの共同墓地で、モンフォールは泣き崩れていた。降りしきる雨の中、墓を抱き抱えるようにして。
「こんな家に生まれなければ……スリジェだって……もっと……」
それ以上、言葉は続かなかった。彼は神を信じなくなり、やがてルシアンという名を捨てた。そして神を利用し、神から搾取する生き方を選んだ──
モンフォールは目の前の少女を見た。
セレスティーヌ。王女として生まれた少女。その身分ゆえに人里離れた修道院に幽閉され、命を狙われ、そして今、目の前で大勢の人間が死んでいる。
同情はあった。同時に、怒りもあった。
「セレスティーヌ……」
モンフォールは静かに呼びかける。
「人は誰しも、生まれる場所を選べない。生まれる姿も選べない。己の生まれを嘆いたところで、状況は変わらない」
モンフォールは焼け落ちた修道院を指差す。
「そして、これが神の所行だ! 神に、我々人間の善悪など通用しない! 他人を犠牲に生き延びたところで、神罰など下るものか! 神は誰よりも邪悪なのだからな!」
セレスティーヌの唇が震える。彼女は声を上げて泣いた。そしてモンフォールの胸元へ飛び込んでくる。しゃくり上げながら、セレスティーヌはモンフォールにしがみついた。
モンフォールはしばらく動かなかった。やがて、幼い王女の小さな頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。泣けばいい。今だけは。だが、泣き終わった後は──生きなければならない。モンフォールは、そう思った。
コメント
1件
ああ〜もう、やられた……。 ルシアンの過去、重すぎてしんどかった。でも、その重さがあるからこそ、今の彼の「神を信じない司祭」って立ち位置がめちゃくちゃ刺さる。妹のスリジェ思い出して叫ぶシーン、声が出ちゃったよ。 それでいて、セレスティーヌに「神は邪悪だ」って言い切るところ、すごく救いというか、彼なりの誠実さだと思った。ふたりのこれから、気になって仕方ないです。