「はぁ……」
私はわざとらしく溜め息をついて、それ以上の会話を拒んだ。
話している間にも私たちは歩いて目的地に着き、お洒落なイタリアンレストランに入った。
部長はぬかりなく予約していたらしく、すんなりと席に案内される。
「パスタのコースで良かった?」
「はい。お肉は夜で」
オーダーを確認して飲み物も頼んだあと、部長は水を一口飲んだ。
「じっくり話すのは夜に……と思っていたけど、先に俺の〝事情〟を話しておくか」
彼はそう言って椅子に背中を預けて脚を組むと、ニヤリと笑った。
「昼ドラも真っ青だぞ」
「心して聞かせていただきます」
一口水を飲んで頷くと、部長は私の反応を期待した顔で切りだした。
「母親が兄の恋人と結婚しろと言ってくる」
「凄い! 昼ドラも真っ青!」
私は思わず突っ込みを入れ、目を見開く。
「だから縁談を受けたくないんだよ」
彼は手持ち無沙汰にメニューを捲りながら、アンニュイに溜め息をつく。
「……確かに気持ちは分かります。お兄さんとは仲がいいんですか? 悪い?」
「どうかな。兄とは母親が違うんだ。俺の実母はとうに亡くなっていて、今の母親は当然実の息子推し。自分の息子が好きすぎて、俺に対しては〝意地悪な継母〟になってる」
「とんだシンデレラじゃないですか」
私は呆然としてさらに突っ込む。
「まぁ、自分の息子が大切なのは当たり前として、あの人は父の事が大好きだから、浮気相手そっくりの俺が憎いんだろうな」
「あぁ……」
私は納得して溜め息をつく。
本妻からすれば、夫が気持ちを向けた女性も子供も憎く思うのは当たり前だ。
部長のお父さんは、本妻をちゃんと想っているから結婚したと思うけど、部長を引き取って息子として育てるぐらい〝前の女〟を大切に想っていたのだろう。
血は繋がっていなくても部長の〝母親〟なら、五十歳は超えているだろう。
それぐらいの年齢ならある程度割り切っていそうだけど、人の感情は年齢で語れるものじゃない。
「でも自分の息子は大切なんでしょう? どうして息子に恨まれるような事を……」
「母親は兄貴に、いい所のお嬢さんと結婚してほしいんだよ」
「うわぁ……。本当に昼ドラだ」
私はげんなりとして呟く。
「……ていうか、部長の家って何なんですか? 部長ってお坊ちゃん?」
「尊」
「ん?」
「デートの時ぐらい名前で呼べよ。俺も朱里って呼ぶから」
名前呼びするよう言われ、私はジワッと赤面すると彼に抱かれた夜を思い出した。
『尊さん……っ!』
あのとき私は無我夢中になって彼の名前を呼び、タガが外れたように求めた。
名前で呼ぼうとすると、どうしても〝女〟になったあの夜を思いだしてしまう。
一人で照れていると、部長は水を飲んで付け加える。
「デートしてるのに『部長、上村』呼びだと不倫臭いだろ」
「それはやです」
私は真顔でキッパリと言う。
「……じゃあ、……み、尊さん……」
渋々と名前で呼ぶと、彼は「よくできました」と言ってにっこり笑った。
……この、掌の上で転がされてる感、ムズムズするんだよなぁ……。
「俺の家は……、んー。勿体ぶるつもりはないけど、聞いたら後戻りできなくなるかも。その前に聞きたいけど、俺と付き合ってくれる?」
微笑まれ、私は目を逸らした。
向かいに沼の化身がいる……。
顔が良くて仕事もできて、エッチもうまい。女性社員からはあからさまに狙われている優良株。
そんな人と付き合いましたなんて言ったら、嫉妬されて袋叩きだろう。
今までも彼は『奥さんいないんですか?』『恋人いないんですか?』と頻繁に聞かれていた。
真剣に尋ねる雰囲気ではなく冗談混じりの質問だったけれど、日常会話をしつつ探っているのはすぐ分かった。
それに対し尊さんは『仕事一筋』と答えていた。
実際、本当に恋人がいる様子はなかったし、女性社員のお誘いにも乗らなかった。
その悔しさを紛らわせるためか、社内では『速水部長はゲイ』という噂が流れているほどだ。
そんな尊さんが昼ドラみたいな事情を抱えていると知り、私は少し尻込みする。
いま聞いた事は氷山の一角で、「知らなきゃ良かった」と思う事実が沢山あるだろう。
加えて〝事情〟を知ってしまえば、後戻りできなくなる可能性が高くなる。
色々考えながらも、私は努めて冷静になって言った。
コメント
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その「沼の化身」は 朱里ちゃんのことをずっと想っていて...💝✨ 朱里ちゃんに名前を呼んで貰って 嬉しそうだよ🥰💕 さぁ、思い切って沼に嵌まってみよ~ぅ✊‼️🌊ドボーン💦
🤭💕好きになってるなってる( *´艸`)❤
尊さんやっと『朱里』って声に出して呼び捨てで堂々と言えるね! 朱里ちゃん!その沼の化身、尊に溺れてみよう!後戻りなんてするわけないじゃん!だって好きでしょ😉