テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
昼前。
家の中に小さな音がある。
洗濯機の回る音。
湯の沸く音。
誰かがページをめくる音。
俺は廊下に座って、それを聞いていた。
音は攻撃してこない。
怒鳴らない。
命令しない。
ただ、そこにある。
___静かだ。
前の家には音がなかった。
あったのは
“来る前触れ”
この音は違う。
「……」
俺は耳を塞がなかった。
妖怪が天井を歩く。
コツ
という小さな音。
――ここ、いいな。
俺は小さく頷いた。
言葉にしない。
でも、体が覚える。
この音は、安全だと。
夕方。
俺は棚の前で立ち止まった。
写真立て。
知らない人たち。
知らない時間。
指が、伸びかけて止まる。
触ったら何かを思い出してしまう気がした。
「……触らなくていいよ」
すちの声が背後からした。
振り向くと、少し距離を取って立っている。
「記憶は、見るものじゃなくて、出てくるものだから」
俺はゆっくり手を引っ込める。
「……見ないの?」
すちは首を振った。
「君のは、君のだから」
それだけ。
俺は写真立てから離れた。
――奪われない。
記憶も、選ぶ権利も。
それがここでは当たり前だった。
日が落ちて、
部屋の形が変わる。
壁に影が増える。
椅子の影。
カーテンの影。
妖怪の影。
前なら全部怖かった。
でも今は。
影は、光がある証拠だと知っている。
自分の影を見る。
ちゃんと、足がある。
消えてない。
妖怪が影の中で手を振る。
――お前も、ちゃんと影あるな。
「……うん」
自分の影を踏みしめた。
ここに、立っている。
それだけで、十分だった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!