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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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焦げた匂いで、目が覚めた。
知らない天井。白い壁。窓の外で、川の水面が朝日を跳ね返している。
一秒遅れて、思い出した。ここは、社長の家の客間だ。
枕元のスマホは、六時十分を指していた。
廊下に出ると、匂いは濃くなった。
リビングの向こうのアイランドキッチンで、白いシャツの背中がフライパンを握っていた。袖を肘までまくっている。換気扇は回っていない。
「……社長」
「起きたか」
社長は振り返らなかった。
「朝食は、私が作る。座っていろ」
フライパンの上に、黒い塊が載っていた。
長方形をしている。卵焼き、のつもりなのだと思う。表面がところどころ炭になって、端から細い煙が上がっていた。
調理台には、割った殻が六個分。砂糖の袋の口が開いて、白い粒がまわりに散っている。
「火が、強すぎます」
「最大にした。早く焼けると思った」
「卵は、早く焼くと焦げるんです」
社長は、フライパンの黒い塊をしばらく見下ろしていた。
「……そうか」
私はそっと換気扇のスイッチを入れて、フライパンを受け取った。
冷蔵庫の中には、卵が四つと、ミネラルウォーターと、封も切っていないバター。それだけだった。
「お米は、ありますか」
「ない」
「お味噌は」
「ない」
「お砂糖は、ありますね」
「それは、昨夜、帰りに買った」
一本の線。
帰りに、と言った。私のアパートから、この家に来る途中のどこかで、この人はわざわざ車を止めたのだ。
残った卵四つで、卵焼きを焼き直した。弱火で、三回に分けて巻く。
冷凍庫の奥に食パンが半斤あったので、それをトーストにした。
黒いダイニングテーブルに、皿を二枚並べる。
社長は、黙って座った。
黙って箸を取り、黙って卵焼きを一切れ口に入れた。
噛んで、飲み込んで、もう一切れ。
最後の一切れまで、一度も箸を止めなかった。
「……甘いですか。母の作り方なので、砂糖を多めに入れるんです」
「甘い」
社長は、空になった皿を見ていた。
「……明日も、作れるか」
一本の線。
私は、自分の分の卵焼きを口に運びながら、どこを見ていいかわからなくなった。
「材料があれば、作れます」
「今日、柏木に買わせる」
「室長に、ですか」
社長は少し考えて、首を振った。
「……いや。私が買う」
*
食器を洗いながら、廊下の奥の扉が目に入った。
色の濃い、木の扉。昨夜、入るなと言われた部屋。
「社長」
「なんだ」
「書斎には、何があるんですか」
ソファでタブレットを見ていた社長が、顔を上げた。
私は手を止めて、彼の顔を見た。三秒、四秒。
「私の過去だ。君には関係ない」
一本の線。
ぶれない。
嘘ではない。この人の過去は、この人のものだ。私が入っていい理由は、どこにもない。
それなのに、蛇口の水を止めたあとも、扉の木目がしばらく目から離れなかった。
社長の机の、一番下の引き出し。
十五年前の、特別調査。
あのファイルも、この人の「過去」なのだろうか。
聞けなかった。
聞けば、私が引き出しを開けたことを、言わなければならない。
*
出社は、別々にした。
社長は運転手付きの車で、私は中目黒の駅から電車で。
「同じ車で来れば、早い」
「同じ車で来たら、一日で噂になります」
「もう、なっている」
「住んでいることまでは、なっていません」
社長は少し黙ってから、エレベーターの扉が閉まる直前に言った。
「……駅まで、十二分だ。遅れるな」
七時半。四十三階。
母の病院から、メッセージが届いていた。
『けさ、急に個室に移されたのよ。窓が大きくて、テレビまでついてる。あんた、何かしたの?』
『会社の福利厚生。気にしないで』
送ってから、スマホを伏せた。嘘をつくのは、昨夜から三回目だった。
柏木室長が、いつもの時間に予定表を持ってきた。
「瀬名さん。昨夜は、ご無事で何よりでした」
「ご心配をおかけしました。鍵の修理まで、ありがとうございました」
「業者の報告では、扉の修理は今日の午後に終わるそうです」
室長は、手帳をめくった。
「それで、昨夜はどちらにお泊まりに。社長室として、緊急の連絡先を把握しておく必要がございます」
答えようとしたとき、執務机のほうから声がした。
「安全な場所だ」
社長は、書類から顔を上げなかった。
「連絡は、私を通せ」
「しかし、社長」
「柏木」
室長は、一度だけ私を見た。シルバーフレームの奥の目が、何かを測るように細くなる。
「……承知いたしました」
室長が部屋を出ていくと、私は社長の机の前に立った。
「室長には、言っておいたほうが」
「必要ない」
社長は、万年筆のキャップを閉めた。
「君の住所は、私だけが知っていればいい」
一本の線。
窓から差し込む光の中で、彼の左目の下の泣きぼくろが、やけにはっきり見えた。
*
九時すぎ、柏木室長が、毎朝の通報の写しの束を社長の机に置いた。
その一番上に、一枚だけ、毛色の違う紙があった。
社内便の封筒に入っていた、A4の印刷物。
『広報部長・久我誠と、新入社員・宮下莉子は、不倫関係にある』
太いゴシック体の見出しの下に、写真が一枚、刷り込まれている。夜のホテルの入口。並んで立つ、スーツの中年の男と、若い女。
「同じ文面が、今朝八時五分、広報部の全員に社内メールで届いています」
室長が言った。
「送信元は、外部の使い捨てのアドレスです。広報部では、すでに朝から騒ぎになっております」
「久我は」
「出社しています。宮下は、九時の部内会議を欠席しました」
社長は、写真を指でとんと叩いた。
「広報部長は、会社の顔だ。それに来週から、広報部の昇進面談が始まる。面談をするのは、久我だ」
社長は私を見た。
「本当かどうか、確かめろ」
私は、写真を見た。
四十代の男の横顔。二十代の女の、うつむいた額。
いくら見つめても、輪郭は一本の線にも、二重にもならなかった。
紙に刷られた顔は、ただの顔だ。何も、教えてくれない。
*
広報部は、三十階にある。
エレベーターを降りた瞬間から、フロアの空気がざわついていた。島型のデスクのあちこちで、パソコンの画面を覗き込む頭が寄り集まっている。私が通ると、その頭が一斉に散った。
「社長室の方ですね」
窓際の席から、男が一人立ち上がった。三十代の終わりくらい。髪をきっちり七三に分けて、ワイシャツの袖口に銀のカフスを留めている。首から下げた社員証に、「広報部 課長補佐 三浦剛志」。
「お騒がせしております。部長は今、役員の方への説明に上がっていまして」
「宮下さんは、どちらに」
「奥の会議室です。朝からずっと」
三浦さんは、声を落とした。
「……かわいそうに。まだ入って二か月なんですよ。あんな写真が出回っちゃ、本人も立つ瀬がない」
私は、彼の顔を見なかった。眼鏡の奥で、目を伏せたまま会釈だけした。
朝から何十人もの顔を見続けたら、昼までに右のこめかみが動かなくなる。ここで使うべきではない、と思った。
三浦さんの胸ポケットで、社用のスマホが短く震えた。彼はちらりと画面を見て、すぐに伏せた。
フロアの奥の、小さな会議室の扉が、半分だけ開いていた。
中から、押し殺した泣き声がした。
ノックをして、扉を開ける。
長机の端に、若い女性が一人、座っていた。紺のジャケット、肩までのまっすぐな黒髪。写真の、うつむいた額の人。
宮下莉子は、真っ赤な目で顔を上げた。
「……社長室の、方ですよね」
「瀬名です」
彼女は、膝の上でハンカチを握りしめていた。考えごとをするときの癖なのか、もう片方の手が、左の耳たぶを何度もつまんでいる。
「私、部長とそんな関係じゃないんです」
宮下さんは、私の目をまっすぐに見た。
「……信じてもらえますか?」
コメント
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本当に素敵なお話でした。社長が誠実で不器用な優しさを見せる「焦げた卵焼き」のシーン、胸がぎゅっとなりました。書斎の秘密や15年前のファイル、広報部で起きた不倫の噂…新しい謎が次々と顔を出して、次が気になって仕方ないです。特に「明日も作れるか」の一言に、社長の隠された孤独みたいなものが滲んでいて、もうたまりませんでした。続き、楽しみにしてます!